学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

人の振り見て

巷間、TOKIOメンバー山口さんのアルコール依存症が話題に上っている。彼がアルコール依存症なのかどうかはさておき、「依存症(中毒)」なるものに僕の意識が向いた。

僕が日常で目にする依存症は、スマホである。老若男女を問わず、町中はスマホ依存症患者に溢れている。さて、ここで僕が「依存症」と判断するのは、「度を超している」と感じるレベルのものである。

電車の中で座って、または立ち位置を見つけてスマホ画面を見ている風景には、あまり感じるものはない。本を読んでいるのと何ら変わりはないだろう。しかし、僕がいらだちすら覚えるのは、歩きながら映像を見ていたりゲームをしていたりというレベルの人である。今日は階段を下りながら映像を見ている人を見て、しかも、その人の前が大きくあいていて、その人の後ろに渋滞が出来ているのに気づいたときである。

これは、「歩きスマホ」というような問題ではない。世間で生きていないというコミュニティ欠如あるいは道徳の問題だと思う。どういうことかというと、周囲に気を配れない、TPOが分からない、という大きな問題だと感じるのである。公共の場で大きな声で話す、ベビーカーをまるでブルドーザーかのように強引に押して人を掻き分ける、地べたに座る、電車の中で化粧をするというような行為もすべて、根は同じと思うのである。

世間の目、他人様の目を気にしないというような話ではなく、「傍若無人」なのだ。周囲の人の存在を無視している行為なのだ。これではコミュニティで生きていけないだろうし、集団生活における道徳を理解していないと判断されても仕方がないだろう。もちろん、こういう行為をしている人も、知り合いがいるところではしない行為だったりする。

ママ友や同じマンションに住む住人の前でベビーカー・ブルドーザーはしないだろうし、恋人の前でパタパタと周囲に粉を撒き散らしながら化粧をしないだろう。つまり、そうした行為ができるということは、目の前にいるのに、その存在を無視できるという、相手への侮辱行為であり、同一共同体メンバーと見ていないということである。

なにを大袈裟な、と思うかもしれないが、案外、社会問題の萌芽はこんなところにあるのだと思う。日常の積み重ねが長年の習慣になり、1人びとりの行為が共同体の行動様式になっていく。「人間」は文字通り、「人の間」でしか生きられない。世間という場合にも「自分の所属する世界と別の世界の間」である。とするならば、周囲に気を配れない、TPOが分からないというのは、「人間」として致命的である。

生物としての「ヒト」ではなく、社会的動物としての「人間」は教育によってこそ育つものだ。「ヒト」は食事と睡眠さえあれば事足りるのだろうが、「人間」はそうはいかない。アルコール依存症によって社会的退場を強いられるのと同じように、なんであれ、度を超したものは社会的ではなくなる。そうなれば「人間」としての生きる余地を失う。

だからこそ、他人の話と流してしまうことなしに、自らの中に度を超したものはないか、我が身を省みる時間を持ちたいと思う。