学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

日本という国のかたち

日本という国は、「二重構造」の国だと思うんです。美濃部達吉の「天皇機関説」というのがあって、日本では昔から天皇が権威を持ち、実権に正当性を与えてきたというような説明を受けるんですが、天皇にも実権はあったと思います。でなければ、中国のように易姓革命が起きて、天皇家を放逐して新たな権威になった人が1200年以上いなかったという事実への説明が付かないように思います。

現在の天皇は政治的権力を持たず、署名捺印をするだけの「ゴム印」と喩えられることもありますが、逆に言えば天皇の署名捺印がなければ法律として成立しないわけで、政治権力は厳然とあるわけです。もちろん、天皇に拒否権はないというかもしれませんが、極端な話、仮病でもなんでも現実逃避はなんとでもなるし、逆に天皇が「イヤだ」と明確に口にされても、天皇を罷免して新天皇を即位させるなどということはできないわけです。今上陛下を信じて、人柄頼みな要素は今もあるわけです。

昭和天皇が好きなテレビ番組を尋ねられて、「昨今はテレビ局同士の競争も激しく、具体的な番組名を言うことは差し控えたい」と回答されたエピソードを待つまでもなく、「皇室御用達」(制度としては現存していない)のお店で買おうとかいう例を見ても、やはりその影響力は厳然とあるわけです。それを濫用しないという天皇家への信頼で成り立っているのが現状と言えるでしょう。

考えてみれば、奈良の律令体制を過ぎてから、日本はそうした「ゴム印天皇家」を戴いてきたわけです。藤原摂関政治院政、武士政権でも同じで、すべて天皇に奏上し、認可を得てきたわけです。つまり、「聞いて頷く」という権力行使をしてきたので、お飾りではなかったわけですね。お飾りならさっさと挿げ替えてしまえばよいわけですから。藤原摂関家上皇に統治を「外注」してきたわけです。それは、天皇家に軍隊がないという事実からも分かります。

天皇家には検非違使や衛兵はいましたが、それらは軍隊ではなく都を守る警察力です。世界中の歴史を見ても、為政者の居宅が簡単に乗り越えられる1メートルちょっとの壁だけで仕切られているのは類を見ないことでしょう。天皇の居宅である御所には、堅牢な防御壁も堀もなく、平地に建っています。貴族と兵士の区別がない時代はともかく(坂上田村麻呂征夷大将軍でしたが、彼を武士と見ることはありません)、平安時代の後期に武士が誕生すると、統治は武家へ丸投げします。

それから鎌倉、室町、江戸と武家の時代が続きますが、天皇家は「何が起きているのかを知る・聞かされる」という形で、絶えることなく続いています。しかし、奇妙なことに、統治行為が朝廷(宮廷)から外へ出ると、今度はここでも「二重構造」が現れます。鎌倉幕府における執権、室町幕府における管領江戸幕府における大老ないし老中であり、やがて将軍家は「報告を受けるだけ」の存在になっていきます。それでも、将軍が「聞いた・知った」というゴム印は、合議制の意思統一、つまり、過程ではさまざまな意見があったけれども、これに決まりましたと衆を一つにする働きがあったわけです。

ある意味で、西洋近代でいうところの「一般意思」、あるいは中国でいうところの「天命」を表象する存在だったわけです。形にならない、目に見えないものを偶像化する手段として、天皇が必要だったとすれば、人類の社会に共通して必要なものだったということができます。政府が「一般意思」ないしは「天命」に逆らったとなれば革命が起き、政府の交代が起きますが、コミュニティから外在する神懸かった自然法的な「一般意思」ないし人間界にはない「天命」は、担当する人間を変えることを可能としましたが、天皇はコミュニティに内在するため、万世一系となり得たのではないでしょうか。

江戸以降を考えても、明治時代から第二次世界大戦までの天皇親政にも「元老」という外注先があったし、最後の元老たる西園寺公望の死後は軍部がそれを担いました。余談ですが、現代の会社にも承認をするだけの社長と遣り手の専務というような構図はよくある形です。日本社会の至るところにこうした「二重構造」は看て取れます。いわゆる「お墨付き」をもって正当性を確保する「手続き」は社会に根付いています。

こうして統治行為を軍事力を持つ外注先へと丸投げしてきたわけですが、戦後はこれをアメリカ合衆国に丸投げしたんですよね。だから、日本は対米従属せざるをえないし、アメリカの意向を受けた法律や制度が作られてきたわけです。江戸時代に朝廷が幕府の言いなりだったのと同じと考えればいいわけです。戦後の日本はまるごと軍事力をアメリカに外注してきたわけです。沖縄の米軍基地を「少なくとも県外」と主張して選挙で選ばれた日本国総理大臣が、アメリカ大統領や国務長官ではなく、ペンタゴンの反対を受けて、あっさりと引き下がったとき、アメリカに対する批判よりも日本の総理大臣に対する批判のほうが強かったことから考えても、日本ではアメリカの内政介入は自然なことだったわけです。

だから、対米従属をやめたいのであれば、あるいはアメリカの顔色を窺いたくなければ、あるいは「アメリカがクシャミをすれば日本は風邪を引く」と陰口を叩かれたくなければ、日本はアメリカへの軍事力の外注をやめ、自前で軍事力を持っていかなければならなくなるわけです。21世紀の討幕運動ですね。明治の頃、徳川家が公爵として残り、貴族院に隠然たる勢力を確保したことからも、アメリカへの外注をやめたところで、アメリカとの関係が破綻することなくやっていける道を見いだせると思います。

というよりも、アメリカにとっては合理的に日本占領計画を自国の利に叶うようにやってきただけであって、日本の事情なんか知ったことではないでしょう。トランプ大統領の誕生を受けて、新しいナショナリズムアングロ・サクソン国家で台頭してきた今(英国のEU離脱も新しいナショナリズムの形でしょう)、日本は自前の軍事力を持たなければならないでしょう。でなければ、戦国時代の様相を呈するか、日本史上で類を見ない無秩序や混乱が起きるのではないでしょうか。日本全国を覆うような軍事力が欠けることになるのですから。

ちなみに、内閣は天皇に対しての責務を負っていないから必要性も制度としてもないけれども、現在でもなお「内奏」(国務大臣による)や「ご進講」(高級官僚や学者による)という名の「聞いて知ってもらう」という権力行使は続いています。