学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

差別とはなにか

NHKの連続テレビ小説あさが来た」がいよいよ最終週になる。月曜~土曜まで毎回を楽しみに視聴してきたので、とても悲しい(涙)。明治創世期の日本がどのような歩みを進めてきたのか、教科書にはない地方の話を知れるだけでなく、そこに生きた人々の姿を具体的にイメージできるので、こういう系統のドラマや小説は大好きだ。それが終わってしまう(号泣)。質の高いテレビ番組が減っている昨今、後継番組を未だ見つけることができず、滂沱(ぼうだ)。

さて、連続テレビ小説はフィクションなので、視聴しながらヒロイン「あさ」のモデルとなった実業家の広岡浅子をネット上であれこれと検索しながら、史実もチェックしているのですが、そこで最終週にふさわしく、晩年をネット・サーフィンしていた。広岡浅子の訃報を伝える新聞各紙は、大きな紙面を割いて広岡浅子の人生を振り返っていた。

そこで一つ気になったことがある。「広岡浅子刀自 逝去」という見出しである。大正8年(1919年)の新聞の見出しや記事に何度も頻繁に登場する。当時の人々にとっては「刀自」は日常語であったわけだ。読み方は「とじ」である。僕は言葉(知識)として知ってはいたが、使用したことは、かなり以前に一度くらいしかないように思う。もともとは歴史的用語で奈良時代からのものであるらしいが、「戸主(へぬし・こしゅ)」で、「女主人」のことを指した。

転じて、中年以上の女性に対する敬称として、「刀自」があった。「様」や「殿」、「くん」「さん」と同じものである。現在では、男性には「氏」、女性には「女史」をつけるが、昨今のフェミニズムの影響からか、女性にも「氏」をつける傾向にあるようだ。女性蔑視に繋がるということらしいが、僕にはこういった流れは、歴史を曲解して歴史や文化や伝統を退ける魔女裁判のようにしか映らない。

確かに、男尊女卑は歴史的産物であろう。しかし、その使用される文脈に応じて、そこに差別意識、侮辱意識があるかどうかこそが問題とされるべきで、現代の文脈でわざわざ「差別的である」と規定する必要性はないと思う。ある言葉の背景を知らずに「そういうものなのだ」と使用している分には、それは差別的な用語ではない。そこに差別の意識が働いていないからだ。言葉尻を捉えて言葉狩りをするほうが、語彙が減っていくばかりであり、結果として表現力が落ちて、味気ない色のない言語使用に陥るばかりであろう。

歴史的に言えば「貴様」は「そちらさま」であり、むしろ敬語である。「貴社」「貴校」といった使い方は今もある。歴史的経緯から、これは差別的ではないと言って「きさまにお願いします」とは言わないのが当たり前であろう。「おまえ」も「御前(おんまえ)」であって、敬語である。でも、「おまえの持ち物をお預かりします」という店員もいないだろう。なんともこっけいな話である。

「未亡人」は夫が先に亡くなった女性への言葉であるが、所有者たる男性が死亡したのに「未だ亡くならない人」という意味だ。これはさすがにひどいから使うなと言うなら、女性は男性とではなく家と結婚するので「嫁」、すると、今までいた女性は古くなるので「姑」となるこれらの言葉も排除されてしかるべきだろう。他にも、家の奥にいて表に出るなという「奥様」や「家内」、台所を「女性が唯一自由にできるところ」として「お勝手」、表玄関とは違って女性が自由に出入りできる「勝手口」、その台所にいる勤め人としての「女房」など、すべて排除されてしかるべきである。これを「パートナー」とかいう外来語で曖昧にすれば、日本語の語感は失われていくであろう。

英語でも、正式には Mr John Smith の妻は Mrs John Smith である。Mrs は Mr の所有格でアポストロフィーの付いた Mr's が由来であるから、所有者たる人の名前が続かなければ不自然である。だから、Mrs Mary Smith と表現すれば、Mary Smith 嬢は女主人のレズで、同性の連れ合いがいるということになる。これは日本語でも同様で、「夫人」は「夫の人」であるから、「山田太郎夫人」が正しい。「山田花子夫人」は意味不明な表現である。ちなみに、未婚女性の場合には、当然するべき結婚を今のところミスっているので、Miss が付く。英語圏でも日本と同様に Mrs と Miss を排して Mz をつけようとする動きもあるが、今のところ、主流派にはなっていないようである。

こうなってくると、言葉そのものではなく、過去の歴史的経緯でもなく、現代の文脈でわざわざ差別的な意味付けをして広まったものが「差別語」になっていると分かる。歴史的文脈がどうであろうと、知らないものについては差別的になっていないのである。そして、たまたま知った歴史的遺物を引っ張り出して現代的意味付けをして拡声器で宣伝して歩いているようなものである。言葉自体には差別も何もない。それを用いる人の意識に差別が存在する。だから、皮肉なことに、差別差別と騒ぎ立てる人ほど、差別が意識の中に強くあり、その人の言動は差別的になるのである。

「差別する人を許さない」と誰かを糾弾し、その人を差別していく。寛容性に欠け、他の立場や価値観の源流を探ろうとすることなく指弾しようとしていくなら、それは革命的であり暴力的である。きちんと他者を知ろうとして、その意識に差別的要素があるのかないのかを文脈の中で考察していけるのであれば、無用な対立である。長いインタビューの一節を取り出し、文脈を無視しての批判は、およそ知的な行為には映らない。

大阪市立茨田北中学校の全校集会で「女性にとって最も大切なのは子どもを2人以上産むこと。仕事でキャリアを積む以上の価値がある」などと発言した寺井校長が辞職になった事件も、同様である。学校の公式ホームページに全文があるし、校長自身が学校関係者(他の教職員や保護者)からクレームを受けていないと言っている。その場にいた人は文脈を知っているからだ。しかし、校外の人たちからの執拗な電話抗議や押し掛けに「業務に支障を生じる原因を作った」ことを理由に校長は辞職を決意した。

この校長の意見に賛否両論があるのは健全なことだ。しかし、反対派のやり方には疑念を抱かずにはおれない。今回の僕の投稿も、きわどいことを述べており、公論とするには少しドキドキしている。それでも、成熟した議論を提起していくために、思い切って書いてみることにした次第である。

最後に、その校長の全文を紹介して、この記事を閉じようと思う。

 

全校揃った最後の集会になります。

 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。

 なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。

 「女性が、こどもを2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がい ますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それほど価値のあることな のです。

 もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。

 次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。

 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。

 子育てをしたら、それで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。

 やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。

 以上です。