学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

伝えたいもの

二宮金次郎と言えば、働いている時間も惜しんで熱心に勉強に取り組んだという勤勉精神を代表する人物である。この勤勉を奨励するために全国各地の学校の校庭に二宮金次郎像の設置が進められてきた。そして、昨日、栃木県日光市の学校に新しく設置された二宮金次郎像のニュースがテレビ等メディアで報道された。

 

 

この記事によると、新しく設置された像は、坐像である。まずは画像で確認したい。

 

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左から順に、従来の像、日光市の像、そして坐像の別のパターンである。もっとも意味不明なものが日光市のものである。休むのであれば右の坐像のように薪を降ろせばいい。もっとも、右の像であれば休憩時間に寸暇を惜しんでいるか、ないしはサボっているだけのようにも思える。やはり、勤勉の精神を伝えるには、従来型の左端のものがよいと思う。

二宮金次郎像が坐像に置き換わっている理由は、「歩きスマホ」が問題になっている昨今、「歩きスマホ」を肯定あるいは奨励しているかのようになってしまうからだという。こう考えて坐像を設置する教育関係者がいることに驚きを隠せない。事なかれ主義というか、問題を起こさないように、クレームを受けないようにと過剰反応しているようにしか思えない。

昨日の記事に通じるところがあるが、現代の風潮に迎合して「本来あるべきもの」を安易に変えてはならないと思う。それでは本質的なところがどんどんと失われてしまうからだ。こうした情けない有り様が教育現場で実行されてしまうところに、日本の教育問題の根本を看て取れると思う。運動会での一列揃ってゴールする競争(すでに競争ではない)や組体操廃止論など、同様の「腐敗」は枚挙に暇がないほどであろう。

今回の場合で言えば、「歩きスマホ」の肯定・奨励と受け取られることのないように児童・生徒を教育していくのが教師の役割であろうし、従来の像を見て「歩きスマホ」や「歩きタブレット」をしようと思う児童・生徒がいたら、その受け止め方のおかしさを注意していくのが教育のするべきことではなかろうか。でなければ、世の中、難癖をつける人だらけとなるだろうし、いわゆる「良識」が消え去る世の中が到来することと思う。それはおかしな受け止め方ですよ、それは難癖というものですよという感覚は、社会生活を成り立たせていくうえで必要な感覚ではないか。

坐像に変えた路線で行くなら、徳川家康殺人教唆の犯罪人として、あるいは人権蹂躙者として糾弾し、教科書から刀や鉄砲などを含む画像を削除しなければ、「真似をしてやってしまう危険な児童・生徒」が現れてしまうことになる。物事を検討する際には、その極端な例を考えれば弊害が見えてくるとは僕の口癖だが、さすがにここまでくれば異常なこと、ばかばかしいことに気付ける。二宮金次郎の坐像は、こうした異常でばかばかしいことなのである。

難癖をつける人がいることを前提として、それへの対処を「あらかじめ防ぐ」という姿勢が正しいとなっていくのなら、常識的に普通に生きている人たちが生きづらく、難癖をつけてくる人が住みやすいという理不尽な世の中が到来することであろう。難癖をつけてくる人に向かって、「ばかじゃないの?」「変な人」「おかしいですよ」と集団的に受け止める空気の醸成こそが必要である。真面目に社会の構成員として生きている人が馬鹿を見るような社会は断固として拒否したい。

変な人がいて、それで新たな規制ができて、ルールは一律適用だから、それまでルールを守ってきた人たちにも不都合が生じる。そして、たいていの場合、その難癖をつけてきた人は最初からそれを利用している人ではなかったりする。こうした例は珍しいものではなくなった。これが今の世の中である。「3つ子の魂、百までも」とあるが、こうした常識感覚、良識は、児童・生徒のうちに身に付けることこそが肝要である。この意味で、二宮金次郎坐像の設置は、大きく落胆させられるものであった。二宮金次郎像の姿形がどうこうというのではなく、それが伝えたいもの、設置した意味をしっかりと伝えていく教育が為されてほしいと切に願う。