学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

文章は美学である

国語的な決まりはないらしいが、文章を書いたり読んだりしていると、国語の記述方法で気になることがいくつかある。たとえば、漢字で書くべきか、平仮名で書くべきか、という問題がある。

「気になること」か「気になる事」か。「思うこと」か「思う事」か。「もの分かりがよい」か「物分かりがよい」か。「技術をものにする」か「技術を物にする」か。

基本的には、事物の場合には具体的な事物が対応するときは漢字で、そうでないときは平仮名で書くとよいとされている。なにかを手に持っているときには「持っている物」であり、技術という抽象物を自分のものにする場合は平仮名で書くとよいということらしい。なるほど。確かに「忘れ物」「持ち物」は漢字で書くほうが座りがよい。しかし、「物分かり」の場合のような熟語の時には漢字でもよいという。

「とき」「時」をめぐっては、少し国語的である。「ご飯を食べている時」「転んだ時」というような特定の時期や時点、時刻を表すときには漢字で、「余裕のないとき」「彼が来たとき」というような状況や条件、仮定を表すときには平仮名で書くとよいらしい。使い分けが明瞭で、これなら困らない。事物のときよりはよい。

もう一つ、明瞭な区別のある例を出しておこう。「机の前」や「駅前」など具体的な位置を示すときは、漢字の「前」を用い、「すこしまえ」「食事のまえ」のような時間を示すときは平仮名の「まえ」を使うというような提案もされており、「時」と「とき」の場合に同じく、使い方に統一性を出すとよいようだ。しかし、明瞭さは長続きしない。

文科省によると、動植物は平仮名で書くことが原則という。「ねこ」「いぬ」となる。しかし、「けんえんの仲」とは書かず、こうした場合には「犬猿の仲」と漢字で書くというから、少しややこしい。しかし、厳密性はなく、「犬小屋」でも「いぬ小屋」でも好きにすればいいと言っている。つまり、国語的な決まりというよりは、社会的あるいは文化的ということで、慣用に従えばよいということだろう。

とはいえ、慣用に任されると、それこそ人に拠る。その人が日常的に多用しているものという定義は、あってないに等しい。どちらでもよいと言われても、これを書き仕損じると頭が悪く見える。日常的に多用しているのが漢字でなく平仮名であると思われ、この程度の漢字も知らないのかと知性を疑われてしまうこともありうる。ということは、自分の都合ではなく、相手の事情を考慮したとすればいい。字句の読み手を大いに意識するのだ。読み手に配慮しようということだ。

ということで、「会社の方」とあった場合、「会社の方角」なのか「会社に勤めている人」なのかは、前後の文章を読まないと分からない。この場合は、方角を表す場合は、平仮名の「ほう」を、人を表す場合は、漢字の「方」を使えば、読み手の労力を少しばかりは軽減できよう。「ほう」と「かた」というように、読み方が違う場合に有効である。

漢字と平仮名、どちらを使っても間違いではないが、読み手のことを考えて上手に使い分けることが肝要だ。「ちょっと(一寸)」「たくさん(沢山)」「ある日(或る日)」「もっとも(尤も)」「もはや(最早)」「なるほど(成る程)」などにおいてはいまや漢字で書くほうがナンセンスではないだろうか。

ちなみに、僕自身にはちょっとした美学がある。今回の投稿で言えば、「ひらがな」とせずに漢字で「平仮名」としているが、これは「漢字」と並べた時に並列関係、すなわち対等であることを示したかったからである。「漢字とひらがな」よりは「漢字と平仮名」のほうが座りがよい。このために、わざわざキーボードの変換ボタンを何度か押した。おっと、ここでも。最初は「毎回押した」としたのだが、「毎回」と「押した」の2語なのに「毎回押」と三字熟語のように見え、読みにくい。そこで間に平仮名を入れて「何度か押した」と表記した。このあたりは国語的とか文法的というより、まさに美学である。

平仮名ばかりが続けば漢字を入れ、漢字ばかりが続けば平仮名を入れる。こういうバランスも気にしている。この場合、言い換えをせねばならず、場合によっては語彙力を試される。さらに言えば、条件や仮定を表す場合、「とき」とせずに「場合」「~ならば(したら)」というように言い換えてもよいだろう。一つの文章の中に同じ音が続く場合や明確に文意を伝えたいときには、誤解の生まれる余地をあらかじめ絶ってしまえばよい。

こうしたこだわりは、まさに美学である。…前半の平仮名の塊が気になります。こうした拘りは、まさに美学である。「拘り」は常用漢字ではないですね。こうした執着は、まさに美学である。「執着」のニュアンスが悪いですね。こうしたポリシーは、まさに美学である。安易に外来語に頼ると言葉の意味するところが曖昧になりますね。こうした非妥協は、まさに美学である。といって、漢語にすると、文章の流れが阻害されますね。

こうした文章の流儀は、まさに美学である(と思う)。