学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

六曜は世俗だ

大分県佐伯市で作成したカレンダーが配布中止になり、その後、市長のお詫び文を添えたうえで政治的判断により配布することにしたという。配布中止になった理由は、大安や友引、仏滅などの六曜表示が差別を招きかねないから、という。

これほど意味不明なニュースはない。「科学的根拠のない迷信を信じることが差別につながる場合がある」とのクレームらしいが、僕の貧相な想像力では六曜が差別につながるような場面を思い浮かべることができない。このニュースを聞いて「???」となった後に、「こじつけなのでは?」という以外に抱いた印象がない。

六曜は、今の時代、そうそう日常的に意識されているものではなかろうが、なにかの折には今もなお必要なものであろうと思う。友引の時に葬式をあげることはないだろう(そもそも火葬場などもお休み)し、仏滅に結婚式をあげる人もいないだろう(結婚式場もお休み)。もちろん、六曜の元をたどれば星占いであろうが、宗教的な意味合いを込めて従っているものではなく、なんとなくとか風俗だからゆえであろう。

つまり、六曜は暦という歴史的文化的所産であって、科学的根拠に基づいているわけではない。大昔に作成した頃は最新の科学であったかもしれないが、今は科学的ではないというだけの話である。宗教も神学も昔は科学であった。近代市民革命期直前に王権は神から授けられたものという説明が論理的であったことからも、当時は宗教は科学的であったし、大学でのメイン学部は神学部であった。それが、六曜の場合には文化として根付いたというだけのことである。科学を無批判的に受け入れる思想こそ「科学教」という一種の宗教なのである。

それに、たとえ六曜宗教的迷信であったとしても、津地鎮祭訴訟での最高裁判例が示すように、もっぱら世俗的な目的であるなら、行政の政教分離を害するものではない。佐伯市宗教的な意味合いを込めて記載したとは考えられず、もっぱら世俗的に記載したに過ぎないのであろうから、堂々とお詫び文もなしで配布すればいいのにと思う。

そもそも、「科学的根拠」をすべてに求め、すべてを科学が説明しきると考えることこそ非科学的である。現代の科学が説明できない事柄はいくらでもある。根拠を示せなければ採用しないというのでは、日常を過ごせないだろう。ちなみに、クレームをつけた市民団体は、仏滅に結婚式をし、友引に葬式を出すのであろうか。挙行するのは自由だが、やはり、まもとな社会生活は送れないと思う。

また、そうしたクレームが出てくるのは自由社会なのだから、「どうぞご勝手に」と思う。心の持ちようや信念、信条に関わる部分なので否定も肯定もできない。しかし、行政が唯々諾々とそのクレームに従うような傾向は良くないであろう。確かに、いろいろな意見や立場があり、行政の中立的立場もあるだろうが、正当なる手続きで市民に選挙で選ばれた代表たる市長は、案件一つ一つについて、市民からの直接の支配を受けずに、自らの判断で行動すればいい。その市長の判断がダメなのであれば、次の選挙で落選するだけの話である。

この意味で、遅ればせながらではあるが、そしてお詫び文を添付するということではあるが、配布を「政治的判断」ですることにしたのは、代表制民主主義にとっては幸いなことであった。でなければ、選挙で選ばれた市長が声の大きな一部の市民の直接支配を受けたことになってしまう。この出来事の結末には一定の安堵をしたが、似たようなことは他の場所でも他の案件で起きうることであろう。そういうおかしなことを許さないよう、一人一人の市民が身近な政治についての監視者にあらねばならないと思う。