学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

今日は天長節

今日は天皇誕生日。かつては「天長節」と呼ばれていた祝日である。今上天皇陛下は今日で82歳になられた。そこで、インターネット上では、本日零時25分頃に女学生によって投稿されたツイッターが話題になっている。

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これに似たつぶやきは、去年もあった(左が今年、右が昨年のもの)。「あんま絡みないけど」というところがツボのようで、去年も今年も話題を集めている。「あんまり」ということは、どっかで多少なりとも絡みがあるのかというツッコミに対して、行幸されたとき、手を振ってもらえるとかの「絡み」はありうるとの擁護もあれば、その言葉遣いに対して敬語を習えとかの批判もある。もっとも、個人的には日本人であるということだけで、「絡み」はあると思う。

2000年生まれの子が15歳になるのかという感慨は置いておいて、こうしたノリを不謹慎と見るかどうかで賛否が分かれている。他にもツイッターは溢れ、「HBD1223」という文字とともにお祝いをしていたり、お顔に書き込みを加えていたりするものもあり、不敬かどうかで議論がなされていたりする。

僕自身は肯定的に捉えている。というより、今上陛下のすごさを認識した次第である。「あまり」絡みのない一国民から、それも現代っ子からお祝いをされるというのは、すごいことなのではなかろうか。「祝!82歳♡♡我らが天皇♡♡」という添えられたメッセージには、その子の気持ちがよく表れていると思う。「素敵な82歳にしてね」という言葉にも温かみを感じる。「友達かよ」というツッコミもあるが、逆に言えば、そこまでの親しみを持たれているということでもある。

不敬かどうかという問題で言えば、過去の経緯を表すフォーマットに則っていないだけで、このつぶやきから不敬の気持ちを感じることはできない。不敬を感じるのであれば、よほど歪んだ見方である。もちろん、型や形式は重要である。多くの人に共通して通じるフォーマットの存在は、相手を不快にさせないという両者が諒解したルールであるから社会生活において重要である。そこから外れることはマナー違反になる。だから、一部の人が不快になり、敬語を学べと批判することもまた、正しい。

しかし、お祝いしたい、親しみを感じているという形式に先行する気持ちの部分がしっかりと存在しているならば、根本には何の問題もない。最近のデモに参加している若者に比べて、僕自身は安心するものがある。相手への尊重、敬意の有無を感じるか否かという点において、こちら側の受ける印象が大きく異なる。平和を唱えるデモに他者への配慮のなさを感じたり、暴力的なものを感じたりしたのとは対照的である。冒頭のツイッターをした人物に対しては、温かなぬくもりを感じ、平和国家日本を感じる。

表象に現れる形式は、まだまだ学生なのだから、これからきちんと身に付けていけばよい。この意味で、批判が出ていることを知るのも一つの経験だろうから、批判も悪くない。今日という日が単なる『国民の祝日』として休日を個人で謳歌することのみならず、「陛下、おめでとう」という他者への心配りを持つならば、それは休日ではなく祝日である。他の祝祭日にたいしても、祝祭日が定められた理由や意味に思いを寄せ、それをキッカケに他者へ思いを寄せられるようになれば、素晴らしいことではないかと思う。

だから、この記事のタイトルには、祝祭日の本来の意味を辿るべく、「天長節」と古めかしく載せた次第である。