学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

感性は教養に裏打ちを受ける

なにを美しいと感じるかは、実は対象物に拠るものではない。美は対象物それ自体に内在しているものではなく、受け手がそれをどのように受け止めるかにかかっている。つまり、同じものを見ても、それを美しいと感じるかどうかは、観察者に拠るのである。なにも感じえない人には、美しいと感じ取る力が備わっていないのである。

美しいと感じ取る力とは、たとえば、青空へと伸びる青々とした葉のすくすくとした成長を素晴らしいと思う心と考え方を身に着けていることである。なにかが変化することのすごさと貴重さ、尊さを知っているからこそ、それを素晴らしいと思うのである。このことは、絵画であろうとなんであろうと同じことである。ピカソの絵のすごさ、貴重さ、尊さを知っているからこそ、ピカソの絵を素晴らしいと感じるのであり、そうでない人にとっては児戯のようにすら見えてしまうのだ。

そうした心と考え方は、普段からコツコツと貯め込み、日常で豊かにしていくしかない。美しさはあちら側にあるのではなく、こちら側にあるのだ。知識や学習といった理性の働きがあるからこそ、感性が育ってくるのであって、感性は生まれながらに備わっているわけではないのだと思う。感じる力を伸ばすためには、その根底に知識や考える力がなくてはならない。

僕の場合、こうした価値観が人生観となり、自分自身に重要な示唆を与えてくれていると思う。見えないもの、美しい自然現象の背後にあるものに意識を向ける心の豊かさ、感性の豊かさが人間社会には必要であると思う。美しいものを美しいと感嘆できることは、実は教養の深さと表裏一体のものである。こうした教養を磨くことを通して、結果的には人間関係をも円滑にしていくだろう。