学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

カラスへの名誉棄損

「烏合の衆」という言葉がある。この言葉を使おうと思って、ふと立ち止まった。この表現は、カラスが集まってカァーカァーとやかましい状況を指し、そこから規律も統制もなく、ただ寄り集まっただけの役立たずの群集や軍隊のことを意味するようになった。

当のカラスにとっては迷惑な話である。というのも、この言葉が作られた時代はともかく、今はカラスは鳥類の中でももっとも賢い鳥だと判明しているし、カァーカァーという「アホみたい」な鳴き声も、実はコミュニケーションを取り合っている「カラス言語」であることが分かっている。カラスの名誉のためにも、この言葉は死語にするべきなのかもしれない。

しかし、今日はこの言葉を使おうと思ったのである。現実世界には「規律も統制もなく、ただ寄り集まっただけの役立たずの群集」がいる。野党の連中である。読み方が同じ「野盗」とでも表現したい気分だ。橋下大阪市長の「維新の党」離脱をきっかけとして、野党を中心とした国政政党が再編の動きを見せている。民主党との連携に難色を示していた橋下氏が抜けた直後から、「維新の党」は民主党との合流を画策し始めた。

「私たち維新の党には、自らの既得権益を断ち切り、あらゆるしがらみを断ち切る『本気』の覚悟が求められています。維新の党の政策の実現を常に最優先にしながら、政権交代可能な政党政治の再構築を目指して、捨て身の覚悟で進路を切り拓いていきたいと思います」とは、「維新の党」幹事長の柿沢未途さんが公式ホームページに掲げる言葉だが、これが非常に白々しく聞こえてしまうのは僕だけではないだろう。

維新の党」には元民主党員もいる。それが元の鞘に納まるという。民主党を批判して抜けてからどれだけの時間が過ぎたというのであろうか。「舌の根も乾かぬうちに」と言いたくなるほどの間しかない。そこにどれだけの大義があるのか。

そもそも「党」とは、「共通性によって結びついた集団」であり、その共通性とは「政」である。したがって、政治家はそれぞれ自らの政治的主張を持ち、志を同じくする者同士で集い、国民を説得していくものだ。その大義のためには、大同小異でもいいから、民主主義における「数は力」という論理のために結び付く。それが「政党」である。

しかるに、1994年の新進党結成以降の離合集散には、この大義がない。選挙権を得たばかりの若者にとっては、生まれた時から今日まで、政治的混乱の渦中にある。これでは将来に希望を持てだの民主主義国家は理想だのという言説が説得力を持つはずもない。手段が目的化し、政治権力を求めるためだけに「数は力」とするので、それなりに口数の多い政治家連中が集まれば、離散は時間の問題である。

先ほども今も「連中」という言葉を用いたが、こちらは「つるむ」という意味である。「呉越同舟」でも構わない。ただ「たむろしている」だけ。だから、従来、不良相手に使われることも多く、言葉の持つニュアンスは良いものではない。しかし、まさに今ここでこの言葉を使うのがピッタリなようにすら思える。もう少しまともな響きに「野合」という言葉があるが、当ブログの品位を保つために、こちらを用いようか。

いずれにせよ、野党勢力が「野合の衆」であるうちは、日本の民主主義の先行きは明るくない。鳥類の研究の結果、「烏合の衆」という言葉が現実を表さないと判明した今、カラスへの名誉回復の意を込めて、きちんと現実が対応した言葉、「政治家の衆」を使う日も、そう遠くないのかもしれない。