学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

新しい時代へ

新年、あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします。

「平成最後の~」というフレーズ、ほんと、メディアは好きですね。この数週間で何度聞いたことか。ちなみに、通常時であれば、メディアは「初の~」が好きですね。ひどい時には「※※を除けばこれが初めて」とか、初回に何か特別な条件を設定して、その設定外では初めてであるとの報道が為される。ということで、今年初めての投稿にまいります。

平成の30年間を振り返る番組が相次ぎましたが、それを見ていて、「失われた10年」と「ロストジェネレーション」からの「失われた20年」へと経済的停滞を経験したことが想起された。これに関連して、2002年~2010年までの「ゆとり教育」や2011年以降の「脱ゆとり教育」に至るまでの個の尊重と多様性の尊重という教育方針に眼が転じた。

いわゆる「詰め込み教育」と言われた知識偏重型が改められ、調べ学習などの能動的で発信型の教育が推進された。この方向性は間違っていないが、OECD学力調査などで学力の低下が顕著に見られ、理念の実現手段に問題があるとされ、削られた学習時間の一部が戻りつつ、「生きる力」を養うと似たような方向性で「脱ゆとり教育」が再出発した。

そして、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が企図された新指導要領が、中学校では2021年度から、高等学校では2022年度から実施される予定である(一部は、たとえば高等学校で今年から前倒し実施もある)。アクティブ・ラーニングもプログラミングも、21世紀という新しい時代を「生きる力」であるとされている。

では、2002年よりも前の時代は何だったのか。経済的にはバブル崩壊、政治的には冷戦の終結という分水嶺によって区切られる時代であるが、教育方針で見れば、それは画一的で考えることを要しない時代であったと判断できよう。すなわち、大量生産をする工場労働者、そして大量消費という同指向的な購買意欲を持つ大衆である。マニュアルに沿って規則正しく正確に作業が出来るように教育し、大衆車に始まって高級車へ、賃貸アパートから始まって一軒家へというような上昇志向的消費行動をする画一的価値観を共有する大衆の創出である。

これは、経済的には高度経済成長から続く緩やかな右肩上がりの経済と、政治的には東西イデオロギー対立による行動の選択肢が限定された(つまりは考えなくてもよい)社会の2つに支えられていた。この2つの支柱を1990年頃に失い、そこから新たな時代を迎えたのである。その世界は画一性から脱却した多様性に富む社会であった。つまりは、自由な世界の出現である。

自由というものは、しかし同時に厄介なもので、個々人がそれぞれの価値観で振る舞うし、また個々人がそれぞれ状況を把握して行動を選択していく必要が出てくる。だから能動的で発信できる人材が必要になってくるわけだが、個の尊重と多様性への対応から、集合的な社会を維持するために「主体的で対話的」な項目を追加することになった。これが学習指導要領の変遷の背景であると思う。

もちろん、社会人のほうもこれと無縁ではなく、こうした社会的変遷を受けて、公務員にも社員にも、いわゆる「人物重視」なる採用試験が定着してくるのである。前例を踏襲して何も考えなくても人口が増加する時代または業績が伸びていく時代が終わったからである。能動的・主体的に考え、取り組み、発信していく人材がなければ、大企業といえども破綻していく時代になったのである。考えなくてもできるマニュアル仕事はAIにどんどん奪われていくから、労働者の側も勤め先のことを自分のこととして捉え、AIにできないことを提供していかなければならない時代となった。

とはいえ、これは昔からあったことで、目新しいことではない。いわゆる「エリート(層)教育」は昔から人物重視教育であったし、考えられる人間の育成であった。たとえば、江戸時代までの家業を継いでいく、いわば考えなくてもよい状態から、明治維新職業選択の自由へと舵を切ったときのことを考えれば自明である。明治維新を支えたエリートたちは画一的で考えなくても済むような人々ではなかった。今日の投稿記事の内容は「大衆教育」について言えることなのである。大衆教育が「読み・書き・そろばん」という基礎を終え、徐々に大衆教育がエリート教育に近づいていっているのである。

落ち着いて考えてみれば、今日の大衆教育を受けた人物は、江戸時代や明治初期の頃でいえば、かなりのエリートである。当時の人々が歴史や国語古典、数学、生物、化学などの現代大衆教育の教科書知識を持っていただろうかと問えば自明であろう。つまりは、エリート層教育の実践がいよいよ大衆レベルまでになったということを意味している。あるいはエリートが大衆といえるまでに増殖したと表現することも出来るだろう。

だから、最先端の「新しい時代を生きる力」を構成する「対話を通じて多角的に考え、能動的・主体的に行動し、発信していく力」は、過去を見ればいくらでもサンプルが存在している。近年の人物重視の傾向は今に始まったことではない。そして、人が人たる所以、「一角の人物」と目されるような状態を作り上げることこそ、これからの新しい時代で活躍する要であるのだ。これこそAIになしえないところである。マニュアル行動ではなく、鍛え上げた精神を備えなくてはならない。

こういう1年にしていきたいと願う。といったところで、今年の抱負ですね。今回の投稿をしていて、1つ、気になったところが出てきたので、それはまた次回のお披露目ということで。

一年を振り返って

今日、本棚の整理をした。今年一年で読んだ本は32冊(小説の38冊と併せるとちょうど70冊になる)。ペースは学生時代に比べて落ちたとはいえ、まだまだ読んでいるものだと感じていたんですが、今日の整理を通じて発見がありました。

ハードカバーの本は7冊だけ。残りはすべて新書版だった。新書版は専門家が一般向けに内容を噛み砕いて書いたもの。つまりは自分の専門外の本ばかりを読んでいたことになる。これは少し悲しいなぁと感じた。

ジャンルとしてはファシリテーション、思考法、哲学、時事問題に関するものが多かった。つまりはお仕事に必要なものを読んでいたことになる。これはこれで仕方のないことなのかもしれない。しかし、来年は自分の専攻分野の専門書をもっと読むように心懸けたい。

単純計算してみたくなった。

小学生の頃は、年間24冊×6年=144冊

中高生の頃は、年間36冊×6年=216冊

大学生の頃は、年間36冊×4年=144冊

修博士の頃は、年間70冊×6年=420冊

社会人以降は、年間40冊×17年=680冊

合計でざっと1600冊ほど読んできた計算になる。この冊数の中には、小説も文庫も新書も専門書も洋書も含まれる。1週間に1~3冊程度は読んできたことになる。これも単純計算だが、一冊あたり1500円程度にすると240万円も本に注ぎ込んできたことになる。もっとも、2/3程度は図書館を利用しているので、実際には100万円程度だろう(洋書はほぼ自分で買ったし、洋書は高いので割り算の答えにちょっと色をつけた)。

こうしてみると、やはり知識の獲得(読書)は財産である。これからも知識の獲得に努めていこうと思う。

ところで、僕は小説からも大いに知識を得てきたと思う。京極夏彦の妖怪シリーズでは民俗学的で心理学的、時に衒学的な知識を大いに楽しんだ。学術的な論理性と対になる人間の不合理な側面を描き出す小説に触れることは、精神のバランスを取る上で重要であったように思う。逆に、森博嗣のS&MシリーズやVシリーズは、学問的な論理性を日常に存在させると日常が破綻する様をユーモアたっぷりに描いているから好きだ。

また、上田秀人氏の水城聡四郎シリーズ(勘定吟味役異聞広敷用人 大奥記録聡四郎巡検)は、幕府(政府)や将軍プライベートの内実、当時の地方の状態などを知れて面白い。同様に財政の側面から幕府の権謀術数を描く『奥右筆秘帳』、朝廷と幕府、とりわけ公家の生態を描いた『禁裏付雅帳』、肚の読み合いが秀逸な『百万石の留守居』、江戸の経済感覚が垣間見られる『日雇い浪人生活録』など、面白いものが目白押しである。他にも、出世を嫌う主人公が権力の中枢に引きずり込まれる『表御番医師診療禄』や将軍の苦悩と孤独を描いた『お髷番承り候』は息抜きにちょうど良かった。

上田秀人氏の作品は、どの作品も、時代小説でありながら現代社会批判であり、役人の生態や習性を描き、権力構造を鋭く描き、主人公の成長と変化を感じさせてくれる。だから、けっして単純なエンターテイメント時代劇ではない。また、史実に対する虚構の作り上げ方も意外性があって面白い。よくもまぁ辻褄を合わせられるものだと、いつも感心している。彼が歯医者の副業として、これだけ多くの小説を書いていることに、二度驚かされる。

さて、来年はどんな作品に出会えるのか、また本屋の平棚を物色しに行こうと思う。も、もちろん、ハードカバーの本も来年は多く読みますよ!

「教養」とは何か

歳末になると、「教養」を特集に取り扱った雑誌などが増えてくる。「教養」を広く浅く解説したり、入門となる書籍を紹介したりといった具合である。長期休暇を前に一念発起する人が多いのだろう。しかし、なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうか。ここで「ただなんとなく」とか「特集が組まれているから」と取り組んでいる場合には、「教養」は身に付かないだろう。

「教養」というものは、物事を比較相対化する視点を提供してくれる。つまり、「教養」は「当たり前のこと」や「常識」を打破する視点を提供してくれるものである。ここで注意しておきたいことは、なんでもかんでも疑えということではない。そんなことをしていたら日常生活で疲れてしまうだろう。世の中には「疑ってもいい常識」と「見逃すべき常識」とがある。この境目を明らかにしてくれるものが「教養」の力なのだ。

どういうことかというと、「見逃すべき常識」とは普遍性が高く、おそらくは時代や空間に支配されずに存在しうるものだ。一方で、「疑うべき常識」とは「今ココ」でしか通用しないような普遍性の低い、時代や空間に支配されているものである。すなわち、「教養」とは時代の把握や空間の把握を多く積み重ねることを指す。歴史を知るものは現代の特殊性を見いだし、西洋を知るものは東洋の特殊性を見いだすということに他ならない。東洋しか知らなければ東洋での「当たり前」や「常識」を疑い得ず、現代しか知らなければ現代の「当たり前」や「常識」を疑うことも出来ない。

さらに言えば、単に「常識を疑え」というような抽象的表現に踊らされ、なんでもかんでも疑いを持ち始めるようであるならば、そこには「教養」がない。疑うには、「当たり前」や「常識」にはかなり強い慣性があることを知り、それらがなぜ根強く生き残っているかについての深い洞察がなければならない。この問いを煮詰める際にも、やはり時代的な、そして空間的な知識の拡がりが必須となる。そうして初めて、普遍性の低いものであるかどうかが判明する。

では、なぜ「教養」を持ち、「当たり前」や「常識」が持つ普遍性の高低を見極める必要があるのだろうか。それは、今この世界が変動期を迎えているからに他ならない。AI や IoT が登場し、働き方が問われ、大災害や戦争などの特殊事情を除いては増加を続けてきた人口が減り始め、民主主義の危機だとか資本主義の終わりだとかが声高に叫ばれるようになった。既存の制度やシステムが機能不全に陥り、環境が激変している今、従来路線にある大企業が苦戦し、ベンチャー企業が闊歩する時代になっている。

こうした時には、イノベーションが必要である。イノベーションは単なる改善策や改革案ではない。それまでの「当たり前」や「常識」を覆して達成されるものである。日本語で「革新」とか「刷新」と訳されるイノベーションには「新しい」要素が含まれている。そこに「革(剥ぎ取ってあらたまる)」や「刷(擦り剥ぐ)」があるということは、「それまでにない」という意味である。江戸から明治へと至るのと同じような激変に現代社会は直面している。

だからこそ、教育界でも「アクティブ・ラーニング」が注目を浴び、「考える教育」が求められ、そうした人材を生み出そうとしている。ビジネスで注目を浴びているファシリテーションは、アイディア出しや創造性の創出のためのツールであるが、その前に基盤たる「能動的な学び(アクティブ・ラーニング)」があり、「考える教育」があるのである。学校教育に基盤があり、その先のビジネスでファシリテーションがあるという順序は間違えていないが、今のビジネスマンには、そうした学校教育がないのだから、今のビジネスマンも学生と同じく基盤整備にまずは精を出すべきだろう。かつてない新しいものに挑むわけなのだから、学生もビジネスマンも一様に初学者である。

ここで冒頭の問いに戻ろう。なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうかという問いである。答えは、イノベーションが必要だから、である。イノベーションのためには「当たり前」や「常識」を疑う必要があり、どれを疑い、どれを疑わずに済ませるかの選別眼を「教養」が提供してくれるからである。これを意識しない「教養」は現代の「教養」の体を為さない。

最後に補足であるが、イノベーションはすべからく「社会的課題」に対処するものである。既存の制度やシステムの崩壊、情報化社会の到来、人口減少問題など、なにかしらの「社会的課題」を解決するものでなければイノベーションは達成され得ないであろう。こうした「社会的課題」を嗅ぎ分け、見つけ出してくるのにも、「教養」は必須である。なぜなら、「現代的」課題であり、一部は「日本的」課題である以上、対象を相対化して比較可能にさせるものは、やはり「教養」だからである。

文章は書くのではなく書かれるものである

聞いた話で恐縮だが、英国の幼稚園で騒いでいた園児を静かにさせようと、若い先生が「静かにしなさい!」と叫ぶ。すると、園児たちはそれに負けないくらい大きな声になって騒いだ。そこにベテランの先生が現れ、園児たちに向かって「レイディーズ・アンド・ジェントルメン!」と呼び掛けたら園児たちは一瞬で静かになったという。

似たような話は日本にもある。「静かにしなさい!」と大きな声で言えばさらに大きな声を出して園児たちは騒ぎ続ける。先生と園児たちの双方の大きな声で教室はカオスに包まれる。そこで一工夫。ある先生が「顔をこっちに向けて!」と言う。みんなの顔が揃うまで声をかける。園児は何事かと目を向ける。そして「お手々は体の横!」と次の指示を出し、みんなの手が体の横に付いたら最後に「お口はチャーック!」と言う。すると園児たちは静かになったという。

この話は何かと言えば、「静かにする」という抽象的な表現に対する園児たちの理解が及ばなかった例である。英国の園児にとって紳士淑女の振る舞いは具体的なものとして把握されている。日本の園児にとっても、顔を向ける、手を体の横につける、口を閉じるという指示は具体的なものとして把握されているということだ。

理解は概念がきちんと把握されることで成立するものである。そして、行動は理解が及んでから成立するものである。概念なき理解はなく、理解なき行動はない。これは一連の動作である。「概念→理解→行動」である。概念と理解は精神の働きであり、目に見えるものではないから、心理学などは表象に生じた行動から精神の働きを見ようとする。つまり、心理学は矢印を逆方向に辿る特殊な行程である。とはいえ、精神の働きは日常では無意識の領域にあり、それを探るとなると本人でもよく分からないというのが普通であろう。

だから、これを解き明かしていくと「分かった!」となるし、事件などで動機を探るのが必要なのも、この「分かった!」を求めてのことである。猟奇的な事件が訳も分からないままに起きたというよりも、異常な精神状態ではあっても犯人なりの道筋が立っていれば気持ち悪さや薄気味悪さは半減する。逆に分からないままであれば気持ち悪さや薄気味悪さは増幅する。

おおよそアウトプットするということは、他者にとって不明な部分を明快に説明しうるということであって、それが口頭であろうと文面であろうと同じである。ただ、口頭での場合には相手の表情を見ながら情報を小出しにして説明を省略しうる。しかし、文面の場合には、予め相手の理解が及ばないところを補わなければならない。冒頭の例を引き合いに出せば、園児に向かって「静謐を保て!」という指示は、園児という対象を見失っているナンセンスな指示である。ここまで極論を言えば納得するものを、「静かにして」が通じないことは意外と気がつかない。

これは、自分が「静かにする」ということを日常語で誰にでも通用する言葉と認識しているから起きることである。つまり、その言葉の伝達先を考えているのではなく、その言葉の発信元を考えているのである。これでは「分かりにくさ」を生んでしまう。「静か」というのがどういう状態で、その状態のことを園児にどう伝えようかと考えれば、自ずと答えに達するというものである。つまり、「自分の理解→概念化→相手の理解→伝達」という流れを踏む必要があるということだ。

ここで冒頭で登場した日本の先生の話に戻る。その先生にとって「静か」とは単に音がしないという状態ではなく、動きのない状態で、かつ、先生のほうへ意識・注意を向けるという状態を意味していたと考えられる。音は立てないがそっぽを向いていたり、あるいは絵本を読んでいたり折り紙を折っていたりするような「静かな状態」は、先生が求めていた「静かな状態」ではないだろう。「静かにする」という日常の簡単な言葉であっても、異なる状態が存在するのである。「静かにしなさい」と呼び掛けて園児たちがそれぞれ本を読み始めたり寝始めたりしたら、先生は再び怒りの青筋を立てることになるのが容易に想像できるが、これは先生のほうのミスである。

ここでようやく今回の記事のタイトルであるが、「文章を書く」ということは、自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化し、その概念を読ませる相手を考えて再び具体化するということである。どんなメッセージを伝えたいのか、その文章を読む相手はどのような思想や考え方をもっているのか、その文章を読んだ相手がどのようなイメージを抱くのか、そうしたことを考えて「文章は書かれる」のである。だから、書く前の推敲が大事になってくる。

最後に、「書く文章」が存在していることにも触れておこうと思う。ズバリ、日記である。これは垂れ流しでかまわない。日記の効用は、ある程度の日付が過ぎれば、自分というものが見えてくることにある。あるいは、自分を振り返る材料になる。日記は「読んでもらう」ことを想定していない特殊な文章であるから、「書かれる」必要性もない。読者は書いた本人であるから、概念のズレも気にしなくて良い。

もっとも、そうしたアウトプットは好き勝手に書くものであり、無自覚的であるがゆえに、自分の無意識を知る手段にもなり得る。文章が書かれる際に、最初にするべき推敲は「自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化すること」であるから、ここの作業と非常に似通っている。就職活動でも最初に来るべきものが業界研究や会社研究ではなく、自己分析である理屈と同じである。

トップに必要なものは何か

とあるブログで紹介された。そこでは「トップの仕事は総称して判断。判断とは全知識の総体」とあったので、今回はそれについて考察してみたい。

判断力というのは、哲学的には「特殊を普遍のもとに関係づける能力。普遍が与えられていて、それに特殊を包摂する規定的判断力と、与えられている特殊に対して、それを包摂するための普遍を求める反省的判断力とに区別されている」(カント)となってる。例によって哲学は難解ですね。誤解を恐れずにまとめてしまえば、個別の出来事を一般論に当てはめる能力だということです。これを演繹でやる(一般論から始めて個別事象を理解する)か、帰納でやる(多くの個別事象から始めて一般論に収束する)かの問題ですね。

おおよそ、判断なんてものは、①多くの経験を積んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うか、②理論書を読んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うかの2種類しかないわけです。ここに共通するのは、「知識」です。その知識を多くの個別事象から得るか、理屈から得るかの違いです。前者のタイプの経営者を「叩き上げ」と表現しますね。後者のタイプは、MBAなどを取得して経営参画する人のことです。

しかし、「判断を下す」となると、上記のような類型では説明できないように思います。つまり、判断が正しかったかどうかは、結果論です。判断を下した時点では未知なるものはあくまでも未知なんです。もちろん、嗅覚の鋭い人であれば、失敗が少ないでしょうが、それでも博打の要素はあるわけです。「判断」には必ずこれでいこう、これでやってしまおうという思い切り、すなわち「決断」が伴います。判断だけして決断をしないのであれば、それは批評家やコンサルタントであり、経営者やリーダーではないでしょう。

そこで、「判断」と「決断」を考察しなければならないわけですが、「判断」には上述したように豊富な知識が必要です。どのようにそれらを得たかは問題ではありません。むしろ、経験と書物からバランスよく得ることが最善だとは思います。その上で、必要なものは「冷静さ」です。これには、感情に左右されないとか公平に物事を見られるといった要素が絡みます。一時の激情に流されることなく、また、自分の意見よりも優れた他人の意見を摂取できる能力ですね。

そして、「決断」においては、楽天家であることが必要でしょう。失敗してもクヨクヨしない。これは言い換えれば、人間に完璧はないのだから完璧を求めても仕方なく、失敗したら失敗したで次を考えようと思える精神力のことです。この意味では、結果に固執することなく、さっぱりと割り切っている人だとも言えます。自らの判断に自信を持ち、清水の舞台から飛び降りる覚悟を決められる能力と言えます。僕自身は心配性ですから、この要素に欠けます。参謀は出来ても経営者・リーダーは務まりません。

さて、そろそろ結論へと進みましょう。

僕はトップの仕事とは「決断力」と思います。「判断」は有能な分析家に任せればいいんです。機を見るに敏、嗅覚鋭く、あまり分析や思考を重ねることなく直感で「今これ!」と思い切れる有能な経営者・リーダーの存在があるからです。とはいえ、こうした経営者・リーダーは一代限り、または一発屋で終わることも多いですよね。やはり経営・運営には「判断力」は欠かせません。しかし、それは雇い入れれば済む話なんです。外注でもかまいません。しかし、「決断を下す」ことを外してしまえば、それはもはやトップではないでしょう。ですから、やはり、トップに必要なものは「決断力」ではないかと僕は思うわけです。

 

追伸

決して、冒頭で紹介したブログに対抗して否定・批判をしているわけではありません。あくまでも僕個人の感じたことです。もっとも、引用先のブログさんでも、短い記事なので断定は出来ませんが、「判断力を下す」という意味合いで使っていると思います。

思想・思考という木から落ちる言の葉②

さて、昨日の『思想・思考という木から落ちる言の葉①』の続きです。昨日の投稿で例に出したようなものは、言葉の伝えるニュアンスが「単語が異なる」ために非常に分かりやすい例でした。今日は同じ表現を用いながらも「異なるニュアンス」を持つ厄介な「単語」の話です。これは、たとえば、ニヤニヤしながら「賢いね」というか、感心した風に真顔で「賢いね」と言うかというような、発話の仕方によるものではありません。

たとえば、メディアなどでしばしば登場する「知識人」とはどのような意味でしょうか。単に知識をたくさん持っているような人のことでしょうか。日常生活の中で「彼は知識人だね」というような場合にはこれに当てはまるかもしれません。しかし、メディアで登場するときには、これとは明らかに意味の異なる使われ方をしていると思います。

では、「専門家」という意味でしょうか。あるいは「有識者」という意味でしょうか。「知識人」をコメンテーターに招いているような番組では、どのような意味合いで使っていると思いますか?タレントも弁護士も学者も、みな同じ「知識人」なのでしょうか。

どれが正しいか、どう使うべきなのかという用語法については、今回の記事ではどうでもいいのです。ここでの問題は、ここに10人の人がいたら、それぞれが「知識人」というものに異なるイメージを持っているということです。より正確に言うと、別に10人の人がいなくてもかまいません。たった一人の頭の中でも、同じ1つの文章中にある単語を複数のイメージを持って書いてしまっている(語ってしまっている)こともあるからです。

「考える」「思考する」ときに、最初に抱いていた発想(内容)を記しているうちに、派生・発展させて、さらに何かないかと探るときに、目の前にある「単語」から連想して話を進めてしまうことがしばしば起きます。そうすると、当初は「専門家」という意味で話を展開していたのに、中程では「知識を豊富に持つ人」について述べ、後半では「有識者」について述べているというようなことが起きてきます。

ですから、学術論文では、論文の冒頭で何について語ろうとしているのかを述べますが、そこでは単に「単語」の定義に止まらず、文脈という背景の整理を通して「単語」をより厳密に定義していくことをしているわけです。先行研究紹介では、この人の定義のここのところと同じであるとか、この人の定義のこの部分は含まないとかいうようなことを含みますが、こうしたやり方は数行で説明・定義するレベルを超え、先人の研究の中で考察が尽くされた成果すら引用してくることになり、より厳密化します。

もちろん、日常生活でこんなことをしていれば息が詰まります。しかし、相手の使った「単語」が自分の認識している「単語」のイメージ(概念)とズレていないかということに意識して傾聴していると、相手をより深く理解することが出来るようになります。カウンセリングにおいて傾聴が重要視されていますが、このときは、「私の思う相手の考え」ではなく、「相手が思う相手の考え」を理解するために傾聴を行ないます。だからこそ、自分のイメージとのズレを意識しないと傾聴は無意味になります。

そして、自分自身の中でも、議論の中で、あるいは思考の中で、当初のものとズレていっていないかを確認していけば、脱線や論点のズレ、つまりは思考の迷走を避けることが出来るようになります。考えを深めていくことは、1つの現象に注目するということでもあります。現実には無視できない様々な要素がありながらも、考える際には他の要素をすっきりとさせないとなりません。結論に至ってから現実的な諸条件を加えていくと本質的な考え方が出来るようになるからです。

物理などでも「摩擦力はないものとする」とか「ここでは重力は考えない」とか仮定します。このことは文系でも同じです。現実にはあれこれ連関して成立している事象ですが、なにか問題を考察していくときには、周囲のものは排除していきます。このとき、同じ1つの単語の中にもあれこれが存在し、「周囲のもの」と「今ここでテーマにしているもの」とを峻別していかないと、考えは深められないんですね。

思想・思考という木から落ちる言の葉①

1ヶ月ぶり以上の更新である。

僕は常日頃から「言葉を大切にして文章を書こう」と言っています。それは、「文章を書く」という行為そのものが「小さな思考」の表出であり、その小さきものの積み重ねが「思想」になると思っているからです。逆説的ですが、思考力を身に付ける訓練とは、「文章を書く」という行為が最上であり、それこそがもっとも総合的に思考の穴を見つけやすい方法だと信じています。

このことは、「言葉」を選んでいれば、その人の生活をも変える力になるということでもあります。マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 換言すれば、「てやんでぇ、しゃらくせぇ」と口にしている人は、それにふさわしい思考、行動、習慣、性格、運命を持つということです。いわゆる「下町の江戸っ子」となれば、自ずと人との出会い・体験なども「上方商人」とは違ったものになるでしょう。同様に、常に敬語を用いる人は、固い思考、冒険のない行動、前例踏襲的な習慣、おとなしい性格となり、そう周囲から見られることで運命をもそうしたものになるでしょう。TPO(時と場合と場所)に応じて、敬語以外も使っていく中庸の姿勢こそ大事だということは言うまでもありませんが、「人となり」を決めてしまうのは、やはり言葉に負うところが大きいでしょう。

その「言葉」に気をつけるということですが、「言葉」の最小単位は「単語」です。「文体」よりも、もっと根源的な要素です。同じ場所を指しても、「トイレ」、「お手洗い」、「便所」、「厠」、「雪隠」、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」、「閑所」という、どの言葉を用いるかで「人となり」、つまりは思想が垣間見られます。「トイレ」から「厠」までは比較的知っている人も多い言葉です。「厠」が和風建築で用いられるのも、「トイレ」と書くよりは雰囲気を出せるからで、「人となり」ならぬ「店となり」を表そうとの意図を読み取れます。

「雪隠」は、学校の古文の授業で扱われることもあり、ちょっとふざけてユーモラスに言うときなどに使う傾向があるように感じます。逆に、今の時代、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」はなかなか通じない言葉であり、これらを使う人は気取っているとか嫌らしい性格の人と思われそうです。「閑所」にいたっては、いわずもがなです。社会的にほとんど通用しない言葉遣いは、もはやコミュニケーションツールとしての「言葉」の役割を放棄しているかのようで、意思疎通を図ろうという意思さえ疑わしくなります。こうした言葉遣いからは、他者へ対する気持ちが読み取れます。

たとえば、「閑所」という言葉を使うことで、それを知らない他者を下に見て安心を得ようとする「劣等感」のようなものを見いだせると思います。もっとも、これは自分も何かのきっかけでたまたま知らない言葉に出逢い、それをさも以前より知っていたかのように使って自らを喧伝している自己承認欲求の表れの1つです。その言葉を知っている人は「賢い」とか「知識人」と感じる性格をもっていると表明していることになります。そして、自分はそれに憧れている、と。他者による自己の認識をそういうものにしたいとの希望が出ています。しかし、残念ながら、往々にして、その承認欲求は「なんだ、こいつ?変なヤツだ」で片付けられてしまうことも多いですね。そして、ますますエスカレートしてしまう。そうした事例には事欠かないでしょう。

このように書いてくると、「よし、では言葉に気をつけよう」となると思うのですが、思考を深めようとした場合、哲学的とまではいかなくても学術的に精緻に表現しようとなれば、さらに「気をつける度合い」が高まります。しかし、これは学術的ではなく日常的にも必要な注意事項で、日常生活においても起きうるミスに繋がります。次回の投稿では、このあたりを考察してみようと思います。