学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

香港のデモについて

今、香港で起きているデモは、民主主義と自由主義を守る戦いである。前回の投稿記事で書いたように、民主主義と自由主義には「人民の武装」がセットになっている。政府の横暴に対して武力を持って反抗していった経緯がある。だからこそ、米国では民間人による銃の保持は「権利」であり、度重なる銃犯罪に遭いながらも、銃規制はいっこうに進まない。また、スイスの民兵制度、中国の人民解放軍も同様である(共産主義はあくまでも民主主義の一形態である)。人民の武装は民主主義や自由主義を守るものなのである。

もちろん、体制に不満があり、人民主権を行使するたびに血を流してはおられないから、人類の叡智は「選挙」という平和的革命手段(政府転覆手段)を発明した。投票用紙は英語ではballotというが、これの原義は「小さい弾」であり、bullet(弾丸)と語源を同じくする。だから、民主主義と自由主義においては、「リヴァイアサン(巨人)」たる国家と比肩しうる武力を民衆は持たねばならず、いざとなれば武装蜂起するという前提がある。

ところが、20世紀も後半になると、国家の持つ武力の高度化により、民衆との武力的緊張関係が緩くなってしまった。民主主義と自由主義においては、政府と民衆が拮抗する武力を持つという武力的緊張関係が2つの主義を機能ならしめるものであったたため、武力的緊張関係が緩くなると、民主的な国家は機能不全に陥る。この意味で、今、香港で起きていることはフランス革命の構図に近く、香港の人々がきわめて政治的であり、「国民」として成熟していることを示している。

香港は長く英国の植民地であった歴史を持ち、1997年まで英国式の民主主義制度に親しんできた文化が根底にある。そして、中国への返還と同時に「一国二制度」という人類未到の新しい仕組みの中で、騙し騙しなんとかやってきたことへのツケが回ってきたのである。犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを認める「逃亡犯条例」の改正案という、まさに人身の保護、身体の自由を巡っての対立がきっかけであった。

香港でのデモが暴力的になっているのは、まさに香港政府と香港の人々の武力が拮抗して緊張状態にあるからであって、まさに初期の人民革命の様相を呈しているように見える。ここに中国政府が圧倒的な武力を投入すれば香港の民主主義と自由主義は破壊されてしまうが、旧植民地に非常に高い関心を寄せている英国、その盟邦としての米国の監視がある以上、軽々には中国政府も動けない。中国政府にとっては内政干渉だが、英米にとっては民主主義と自由主義の戦いという普遍的なものであり、英国においては旧宗主国として介入は義務というような意識もある(連日に渡るBBCの詳細なレポートが放映されている)。

香港でのナショナリズムは、中国の傀儡政権としての香港政府への反抗であり、香港政府の後ろに控える中国政府に対する反抗である。英国国籍を失い、かといって「一国二制度」の中で中国人としてのアイデンティティも持てない香港の人々にとって、今回の出来事は、香港という「国家」、香港人という「国民」を形成するプロセスであるように思う。英米の睨みによって中国が介入しなければ香港のナショナリズムは成功するであろうが、「中国」「中国人」というナショナリズム英米への抵抗で作り上げ、冷戦期に英米(中国にとっては今も帝国主義に見える:経済的帝国主義)との戦いを生き抜いた中国にとっては、英米の睨みは、ナショナリズムが未成熟な日本が感じるような強いものではなく、歯止めとしての効果も高くはないだろう。

かといって、中国においても、天安門事件(1989年)のときのようにはいかない。インターネットによる人民の連帯は、2010年のチュニジアで起きた「ジャスミン革命」のように強力であり、情報統制が効かず、圧倒的武力を持つ中国政府とはいえ、14億を超える中国人民の連帯(人海戦術)の前には、皆殺しにするわけにはいかず、政府と人民との「武力の拮抗」という武力的緊張状態を招く恐れがある。古代より歴代の中国王朝は人民武装蜂起によって倒れてきている。すなわち、中国においては、英米の睨みというよりも、国内問題として介入の是非が判断されるであろう。

さて、翻って日本であるが、政府と人民の武力的緊張状態は、かつて、人類史上例を見ない形で実現されかけた。憲法による国家の武力放棄である。これは、政府も国民も武装解除するということであり、ある意味で武力的バランスがとれ、政府と国民との間に緊張状態を作り出していたかもしれない。しかし、現実には政府は武装を再開し、現状では国家と国民の間には武力的緊張状態は、圧倒的格差を前にしてバランスを欠いて緩衝状態である。

憲法改正、はっきりと言えば9条を巡る問題は、この意味で、きわめてナショナリズムの問題であり、「国家」「国民」を形成するプロセスに関わる革命的な内容を含むものである。だからこそ、憲法9条を巡る問題は、国民一人一人が政治化し、その是非を問わなければならないものである。そのときの情勢、とりわけ国際情勢にのみ目を奪われて判断するのではなく、きわめて政治的に、主権を持ち、それを行使する「国民」としての責務の中で、自覚的に取り組まなければならない。ナショナリズムを愛国精神に貶め、偏狭な視野で感情的にナショナリズムを排除するのではなく、正しく「公民」として取り組んでいかなければならないと思う。これが成せたとき、未成熟な日本の「国家」「国民」「ナショナリズム」が欧米とは異なる形で成熟するであろう。香港での「国家」「国民」「ナショナリズム」に共感を覚えず、無関心でいるうちは、日本は未成熟である。