学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

歴史に学ぶ

第一次世界大戦以降、戦争による甚大な被害や総力戦となった壮絶さへの恐怖から、世界は平和を希求し、とりわけヨーロッパでは「あらゆる戦争に対して無条件に反対する」というような風潮が生まれた。そして、第一次世界大戦への反省と平和主義から、国際連盟1920年)、ジュネーヴ議定書1924年)、不戦条約=ケロッグ・ブリアン条約(1928年)と、立て続けに平和構築への模索がなされた。

そして、「1320億金マルクという天文学的賠償額を要求し、全植民地と領土の13パーセントを剥奪、戦車・空軍力・潜水艦の保有禁止、陸軍兵力の制限(10万人以下)、参謀本部の解体、対仏国境ラインラント地域の非武装地帯化など、ドイツの経済や安全保障にとって非常に厳しい」(Wikipediaより引用)ヴェルサイユ条約は、追い詰められたドイツをしてヒトラー率いるナチスを民主的な手続きによって生み出した。

その後、ナチス・ドイツヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を進め、ラインラント進駐(1936年)、オーストリア併合(1938年)をし、チェコスロバキアズデーテン地方を要求するにいたっては、英仏独伊4ヶ国会議(ミュンヘン会談)でこれを認めてしまった。当事者のチェコスロバキアは会議に招待もされていない。この時、イギリスのチェムバレン首相は戦争を回避し平和を呼んだ英雄として称えられている。

そして、ナチス・ドイツチェコスロバキアを解体し、一部を保護国化、一部を同盟国のハンガリー王国に併合した後、残るチェコ本体もドイツに併合して、チェコスロバキア全体を手中に収める。ミュンヘン会談の合意を踏みにじる暴挙に対して、ようやく英仏が抗議の声を上げるも、具体的な軍事行動は採らなかった。そして、ドイツによるポーランド侵攻をきっかけにして、第二次世界大戦が始まったのである。

こうしたチェムバレン首相の宥和政策にたいしては、賛否両論がある。世界恐慌への対応にあえぐブロック経済の中にあって、当時の英国は、軍備を整えて経済的に破綻するか、軍備を整えずに軍事的に破綻するかの二択状態であったと言われている。賛成派はその間の時間稼ぎの側面を高く評価する人々である。一方で、チャーチルに代表される反対派は、「宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう」(『第二次世界大戦回顧録』)というのである。

この時の教訓は、現代もなお生きている。湾岸戦争(1990年)やイラク戦争(2003年)の時、早期の段階での開戦を英米主導で行なったのは、この教訓に従ったためである。ブッシュ大統領は、父も子も、開戦の正当性にヒトラーへの宥和政策の失敗を根拠に挙げている。

さて、今の日本を取り巻く環境はどうであろうか。第二次世界大戦への反省から強固な平和主義になり、隣国に対して宥和政策を採り続けてきた。あるいは、北朝鮮に対する世界的な宥和政策もある。戦争という暴力的措置に出るかどうかはともかく、宥和だけではなく毅然とした強い態度で外交に臨むということも必要であろうと思う。でなければ、歴史の教訓が示すような、もっとひどい結末を迎えることになるかもしれない。我慢の限界(国民の生命と財産の安寧の限界)が近づいてからやむを得ずというのではなく、傷口が広がらないうちに問題に対処することも必要なのではなかろうか。