学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

AIのつくる未来

今月初頭、人工知能(AI)分野の人材育成を進めるため、文部科学省は今秋、全ての大学でAIの基礎を学ぶことができるよう全国共通のカリキュラム(教育課程)を作成すると発表した。ビッグデータ活用を学ぶ大学の事例などを参考に文系、理系の枠を超えた教育内容とし、早ければ来春から一部大学で先行実施する予定だ。将来的には、毎年、全大学の1学年全員にあたる約50万人の学生がAIを学習する体制を目指す方針である。また、2020年にセンター試験に変わって実施される大学入学共通テストに、文系理系に関係なくプログラミングなどの情報科目が導入されるようだ。

基本的学力が「読み・書き・そろばん(算数)」に加えて「プログラミング」ないし「人工知能の基礎」としていよいよ認識されてきたと言えそうだ。オクスフォード大学のオズボーン氏が「消える職業と新しい職業」と表していたものとして、「データマーケター」とか「データサイエンテスト」というような職業も生まれてきた。これらはマーケティングへの理解を大本としつつも、ビッグデータや統計、プログラミングなどへの理解を基礎としている。

最近、文系の僕自身にもこうした情報技術に関する仕事が増えてきて、理系文系を問わないAIという時代の波を感じる日々である。そこで、少しばかりデータ・マーケティングをかじったところで、ふと感じたことがある。データ・マーケティングビッグデータを徹底的に分析して消費者の趣向や行動を予測し、先回りして購買を促そうという仕組みである。

身の回りのものを見てみると、なるほど、どの会社もよくデータ・マーケティングをしていると思わせられる。データ分析を通して「もっとも売れるもの」を形作るから、どこも似たり寄ったりの製品で溢れている。車を例にとっても、トヨタらしさ、日産らしさ、ホンダらしさ、ダイハツらしさ、スズキらしさがなくなっており、車にあまり興味のない人からすると、区別するのが難しい。スマートフォンしかり、洋服しかりである。どの製品をとっても、あるメーカーらしい奇抜さや独特さが消えて、皆、マイルドである。

これは何も造形物に限らない。たとえば、テレビ番組でも同じだろう。どこのチャンネルに合わせても、似たような番組編成や番組企画である。こちらは視聴率というデータに基づいている。

「売れる!」ということが唯一のモノサシとして闊歩し、売れなくても「売りつける」というような事態まで横行しているように思う。これはもちろん、少子化による人口減少で、黙っていても一定数の「顧客」を確保できた昔と違って、「購買者」を奪い合う様相を呈しているからであろう。このことは利潤追求の企業に止まらず、地方自治体でも同様だ。減少する人口を前にあれこれと政策を打ち出して、パイの小さくなった人口を奪い合って地方活性化としている。

いろいろなところがユニバーサル・デザインになり、コモデティ化が進み、「面白味」や「野心的」な要素が薄まってしまった。これに対応するのが「ニッチ」だが、そこまで「特殊」へ軸を行かずとも、もう少し「個性」を出してもいいように思う。そう、「個性的」な要素を感じられない世の中になってしまったような、「薄味」なのである。一方で、YouTubeで流行るものは「個性的」である。

小学生のなりたい職業が「YouTuber」という結果もあるが、「薄味」に物足りなくなった人々が「個性」を求めているのかもしれない。ざっとの観察でしかないが、YouTuberは「自分のやりたいこと」をやっている。個性的なのである。そして、その発信者は個人であり、ビッグデータ分析はしていない。だから、時に「炎上」もするのであろう。

何事においてもバランスは重要であるが、今の世の中、データ化が進んで画一的になってきた。皮肉にも、多様性を謳うということが画一的に為されている。「多様性の尊重」というところに誰も反対せず、画一的な価値観となっている。本当の意味で多様性が存在するようになり、個性が出て、それぞれが色彩を放つようになればいいのになぁと思う。