学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

思考実験は非現実的でよい

北方四島の「ビザなし交流」の訪問団に参加した日本維新の会丸山穂高衆議院議員は訪問団のメンバーに「戦争で島を取り返すことには賛成か反対か」などと質問したことについて13日夜、「不適切だった」としてみずからの発言を撤回し、謝罪しました。(NHKニュース

こうした失言報道には、いくつかの種類があると思う。まずは発言者の潜在意識にある「差別意識」や「旧態依然」が表に出てしまったパターンである。これについては、僕は「自然にあるがまま受け入れよ」「きれいごとだけの世の中にするな」と思っている。もちろん、このパターンでの失言に非難をすることはよい。しかし、それで本人が気づいて謝罪すれば終わりという程度に捉えている。いつまでもしがみついて問題視することはない。「臭いものに蓋」をしていても、「臭いもの」の存在は消えない。むしろ、水面下に潜らせて存在を見えなくさせてしまう方が問題である。人間は感情の生き物であることが根本であり、思ってしまったことは仕方ない。ただ、社会生活上で問題があるので、指摘し、気づいて謝罪で済む話だと思っている。もちろん、「失言」という言葉だけの問題ではなく、「行動」にまで移ってしまっていたならば糾弾して然るべきである。

「失言」のもう一つのパターンだが、これは「思考実験」的なものだ。たとえば、「北方領土は戦争なくして取り戻せないのか」という問い掛け自体はなんの問題もないと思う。これが「戦争」という表現にアレルギー反応を起こし、議論そのものを排除するならば、そのほうが問題であると思う。テレビであるコメンテーターが「憲法に書いてある戦争の出来ない国で戦争をしないと取り戻せないと発言することは、国会議員の資格がない。憲法で禁じられていることを論じる意味はない」と評していたが、そんなことはないと思う。むしろ、現実的に必要で憲法や法律がそぐわないならば、国民の生命と財産を守るという国家の第一目的を果たすために、必要ならば憲法や法律を変える最初の仕事を果たすのが国会議員であるからだ。「憲法や法律で禁止しているが、その禁止は妥当か」という議論自体はあって然るべきものだ。

「考える」際には極論は必須である。たとえば、今、たまたま「資本主義民主主義国家」が成り立っているが、これは必然ではなく、そもそも成り立っていること自体が不思議な出来事だというような捉え方をしない限り、体制の改善や改革はなされないだろう。必然であるならば放置しておけばよい。腐敗するのも崩れ去るのも、そこから何か別のものが生じてくるのも、必然である。そうではないからこそ、手を尽くす余地が存在しているのだ。地震が来るかもしれないから対策を講じるわけだし、極論まで考えないから想定外が出てくる。自動車事故でも「ありえないような事故」が起きると想定したところまで安全装備が配されるのである。「死ぬ」という言葉にアレルギーを起こして、事故が起きて人が死ぬなんて不謹慎なことを考えるなとすれば、エアバックすら開発されなかったであろう。

今般、かわぐちかいじの「空母いぶき」が実写映画化される。自衛隊を扱ったものは過去にも多くあった。戦国自衛隊ゴジラとの戦いなど「ファンタジー」であった。しかし、「空母いぶき」はこうした過去の自衛隊ストーリーとは異なり、きわめてドキュメンタリーに近い。映画の中の出来事は、現実的には「起こりそうもない現実」であると同時に、「起こるかもしれない現実」でもある。映画の中では「戦争をしないために戦う」というギリギリの選択がどこなのかを問い掛けてくる。ただ「戦争をしない」では済まない厳しい現実が仮定されている。戦争をせずに戦闘で止めるための必死の攻防戦である。

こうしたことを突きつけられて、初めて思考が始まる。防災と同じく、想定は普段からしておく必要がある。この「極論」が舞台の映画は、見終えた人々にさまざまなことを考えさせるのではなかろうか。この映画を戦争映画だとか戦争礼賛と受け止めて非難するようであれば、それは思考停止である。「ありえない」ことを映像化してくれているのだから、今回はより具体的に想像し、より具体的に思考が始まるだろう。

さて、ここで冒頭に戻る。「北方領土は戦争なしには取り戻せないのか」という問い掛けは、あって然るべき問い掛けである。ただし、酔った勢いに任せて絡み酒というような不真面目な態度であったことは非難に値する。僕が問題にしているのは、その報道におけるコメントの在り方である。むしろ、マスコミは謝罪があったと済ませ、実際にはどうやったら取り戻せるのか、戦争という外交手段も排除しないで考えていこうという姿勢で北方領土を取り上げ、国民的議論にまで昇華させなければならない。国民的議論を呼んでこそマス・コミュニケーション(集団・大衆でのコミュニケーション)であろう。

日本が戦争という手段を採らないとしているのは、日本の個別事情である。世界的には関係ない話だ。外交は相手があって初めて成立する。その相手の手札に戦争がある以上、戦争を度外視は出来ない。日本がしない、受けないといっても、相手が手段として押しつけてくることもあるからだ。その場合、どうするのか、戦争にまで発展させずに戦闘で終えるべく知力を尽くそうということを「思考実験」で想定訓練することは、必須ではなかろうか。アレルギー反応を起こして「戦争」に関わる議論すら封殺してしまうことは、そのまま知力の低下を意味すると僕は思う。