学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「教養」とは何か

歳末になると、「教養」を特集に取り扱った雑誌などが増えてくる。「教養」を広く浅く解説したり、入門となる書籍を紹介したりといった具合である。長期休暇を前に一念発起する人が多いのだろう。しかし、なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうか。ここで「ただなんとなく」とか「特集が組まれているから」と取り組んでいる場合には、「教養」は身に付かないだろう。

「教養」というものは、物事を比較相対化する視点を提供してくれる。つまり、「教養」は「当たり前のこと」や「常識」を打破する視点を提供してくれるものである。ここで注意しておきたいことは、なんでもかんでも疑えということではない。そんなことをしていたら日常生活で疲れてしまうだろう。世の中には「疑ってもいい常識」と「見逃すべき常識」とがある。この境目を明らかにしてくれるものが「教養」の力なのだ。

どういうことかというと、「見逃すべき常識」とは普遍性が高く、おそらくは時代や空間に支配されずに存在しうるものだ。一方で、「疑うべき常識」とは「今ココ」でしか通用しないような普遍性の低い、時代や空間に支配されているものである。すなわち、「教養」とは時代の把握や空間の把握を多く積み重ねることを指す。歴史を知るものは現代の特殊性を見いだし、西洋を知るものは東洋の特殊性を見いだすということに他ならない。東洋しか知らなければ東洋での「当たり前」や「常識」を疑い得ず、現代しか知らなければ現代の「当たり前」や「常識」を疑うことも出来ない。

さらに言えば、単に「常識を疑え」というような抽象的表現に踊らされ、なんでもかんでも疑いを持ち始めるようであるならば、そこには「教養」がない。疑うには、「当たり前」や「常識」にはかなり強い慣性があることを知り、それらがなぜ根強く生き残っているかについての深い洞察がなければならない。この問いを煮詰める際にも、やはり時代的な、そして空間的な知識の拡がりが必須となる。そうして初めて、普遍性の低いものであるかどうかが判明する。

では、なぜ「教養」を持ち、「当たり前」や「常識」が持つ普遍性の高低を見極める必要があるのだろうか。それは、今この世界が変動期を迎えているからに他ならない。AI や IoT が登場し、働き方が問われ、大災害や戦争などの特殊事情を除いては増加を続けてきた人口が減り始め、民主主義の危機だとか資本主義の終わりだとかが声高に叫ばれるようになった。既存の制度やシステムが機能不全に陥り、環境が激変している今、従来路線にある大企業が苦戦し、ベンチャー企業が闊歩する時代になっている。

こうした時には、イノベーションが必要である。イノベーションは単なる改善策や改革案ではない。それまでの「当たり前」や「常識」を覆して達成されるものである。日本語で「革新」とか「刷新」と訳されるイノベーションには「新しい」要素が含まれている。そこに「革(剥ぎ取ってあらたまる)」や「刷(擦り剥ぐ)」があるということは、「それまでにない」という意味である。江戸から明治へと至るのと同じような激変に現代社会は直面している。

だからこそ、教育界でも「アクティブ・ラーニング」が注目を浴び、「考える教育」が求められ、そうした人材を生み出そうとしている。ビジネスで注目を浴びているファシリテーションは、アイディア出しや創造性の創出のためのツールであるが、その前に基盤たる「能動的な学び(アクティブ・ラーニング)」があり、「考える教育」があるのである。学校教育に基盤があり、その先のビジネスでファシリテーションがあるという順序は間違えていないが、今のビジネスマンには、そうした学校教育がないのだから、今のビジネスマンも学生と同じく基盤整備にまずは精を出すべきだろう。かつてない新しいものに挑むわけなのだから、学生もビジネスマンも一様に初学者である。

ここで冒頭の問いに戻ろう。なぜ「教養」を身に付けることを人々は求めるのだろうかという問いである。答えは、イノベーションが必要だから、である。イノベーションのためには「当たり前」や「常識」を疑う必要があり、どれを疑い、どれを疑わずに済ませるかの選別眼を「教養」が提供してくれるからである。これを意識しない「教養」は現代の「教養」の体を為さない。

最後に補足であるが、イノベーションはすべからく「社会的課題」に対処するものである。既存の制度やシステムの崩壊、情報化社会の到来、人口減少問題など、なにかしらの「社会的課題」を解決するものでなければイノベーションは達成され得ないであろう。こうした「社会的課題」を嗅ぎ分け、見つけ出してくるのにも、「教養」は必須である。なぜなら、「現代的」課題であり、一部は「日本的」課題である以上、対象を相対化して比較可能にさせるものは、やはり「教養」だからである。