学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

トップに必要なものは何か

とあるブログで紹介された。そこでは「トップの仕事は総称して判断。判断とは全知識の総体」とあったので、今回はそれについて考察してみたい。

判断力というのは、哲学的には「特殊を普遍のもとに関係づける能力。普遍が与えられていて、それに特殊を包摂する規定的判断力と、与えられている特殊に対して、それを包摂するための普遍を求める反省的判断力とに区別されている」(カント)となってる。例によって哲学は難解ですね。誤解を恐れずにまとめてしまえば、個別の出来事を一般論に当てはめる能力だということです。これを演繹でやる(一般論から始めて個別事象を理解する)か、帰納でやる(多くの個別事象から始めて一般論に収束する)かの問題ですね。

おおよそ、判断なんてものは、①多くの経験を積んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うか、②理論書を読んで知識を蓄え、こうすれば未知のXもうまくいくと思うかの2種類しかないわけです。ここに共通するのは、「知識」です。その知識を多くの個別事象から得るか、理屈から得るかの違いです。前者のタイプの経営者を「叩き上げ」と表現しますね。後者のタイプは、MBAなどを取得して経営参画する人のことです。

しかし、「判断を下す」となると、上記のような類型では説明できないように思います。つまり、判断が正しかったかどうかは、結果論です。判断を下した時点では未知なるものはあくまでも未知なんです。もちろん、嗅覚の鋭い人であれば、失敗が少ないでしょうが、それでも博打の要素はあるわけです。「判断」には必ずこれでいこう、これでやってしまおうという思い切り、すなわち「決断」が伴います。判断だけして決断をしないのであれば、それは批評家やコンサルタントであり、経営者やリーダーではないでしょう。

そこで、「判断」と「決断」を考察しなければならないわけですが、「判断」には上述したように豊富な知識が必要です。どのようにそれらを得たかは問題ではありません。むしろ、経験と書物からバランスよく得ることが最善だとは思います。その上で、必要なものは「冷静さ」です。これには、感情に左右されないとか公平に物事を見られるといった要素が絡みます。一時の激情に流されることなく、また、自分の意見よりも優れた他人の意見を摂取できる能力ですね。

そして、「決断」においては、楽天家であることが必要でしょう。失敗してもクヨクヨしない。これは言い換えれば、人間に完璧はないのだから完璧を求めても仕方なく、失敗したら失敗したで次を考えようと思える精神力のことです。この意味では、結果に固執することなく、さっぱりと割り切っている人だとも言えます。自らの判断に自信を持ち、清水の舞台から飛び降りる覚悟を決められる能力と言えます。僕自身は心配性ですから、この要素に欠けます。参謀は出来ても経営者・リーダーは務まりません。

さて、そろそろ結論へと進みましょう。

僕はトップの仕事とは「決断力」と思います。「判断」は有能な分析家に任せればいいんです。機を見るに敏、嗅覚鋭く、あまり分析や思考を重ねることなく直感で「今これ!」と思い切れる有能な経営者・リーダーの存在があるからです。とはいえ、こうした経営者・リーダーは一代限り、または一発屋で終わることも多いですよね。やはり経営・運営には「判断力」は欠かせません。しかし、それは雇い入れれば済む話なんです。外注でもかまいません。しかし、「決断を下す」ことを外してしまえば、それはもはやトップではないでしょう。ですから、やはり、トップに必要なものは「決断力」ではないかと僕は思うわけです。

 

追伸

決して、冒頭で紹介したブログに対抗して否定・批判をしているわけではありません。あくまでも僕個人の感じたことです。もっとも、引用先のブログさんでも、短い記事なので断定は出来ませんが、「判断力を下す」という意味合いで使っていると思います。