学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ムラ社会とグローバル世界

今回は政治的に微妙な話題となることを最初に申し上げておく。そして、いわゆる「差別」意識なく率直に思うところを述べていくので、そういう前提で読んでいただけたらと思う。

先日、大阪なおみ選手がテニスの4大大会「グランドスラム」で優勝した。興奮した対戦相手の見苦しさに比して、試合中でも表彰式でも、その遠慮がちながらも堂々とした態度は立派であったし、なにより、偉業を成し遂げたことは、心からの盛大な拍手を送りたい。

しかし、その一方で、彼女が「日本人として初の快挙」とか「日本人選手」として紹介されるたびに、正直、違和感を抱いたのも確かである。ハイチ系米国人を父に持ち、日本人を母に持つ彼女が、見かけ上、いわゆる僕の中の「典型的な日本人」像から懸け離れているからである。

これには思い当たる節もある。日本の国技たる大相撲で外国人力士が横綱として多数輩出され、日本人横綱がいなくなったあたりから、相撲に対して抱いた違和感と同じなのである。見た目はきわめて日本人に近いアジア系外国人力士であっても、相撲は神道の神事である。日本人としての精神性が高く問われる。外国人力士の活躍を耳にするたびに、神事としての相撲は、いつしか消えてなくなったかのような気がしたのである。昨今の相撲協会のゴタゴタは、そうした一連の出来事の帰結のようにすら思えた。

これらは僕が古いことに拠ると自覚している。エリック・ホブズボームがグローバリズムの進む世界を「グローバル・ビレッジ(地球村)」と称したが、僕は「ジャパン・ビレッジ(日本村)」から精神的に抜け出せないでいる。この村はなかなかに強固で、「典型的」でないものを排除するような排他的なムラ社会である。だから、幼少の頃にニューヨークに移り住み、カタコトの日本語を操り、アメリカ社会で育った彼女を「日本人」の成果として認められないでいる。

グローバル化が急激に進み、町中で外国人を多数見かけるようになった。地域の公立学校にも外国人を親に持つ子どもの割合が増えている。僕の子ども時代にはまず日常になかった風景である。こうした時代背景の中で、「日本人とは何か」という精神性が問われ、日本人としてのアイデンティティが揺らいでいるのである。

しかし、大阪なおみ選手を見ていると、表彰式で「ごめんなさい」と泣きながらに周囲へ細やかな配慮を示したり、試合後には「カツ丼」や「カツカレー」を食べたいと言ったり、はにかんだ笑顔を見せたりという場面に接すると、古き良き日本人の姿をはっきりと見て取るのである。精神性は明らかに日本人である。だからこそ、見かけ上に惑わされ、本質で見ようとして見かけに戻り、と両者の間を行ったり来たりしている。

こういうアイデンティティの危機に直面するからこそ、大阪なおみ選手の存在は僕の「現代人としての日本人」を問いかけ続けている。グローバル世界に生きているからこそ、「国際人」という根無し草ではない「日本人」としてグローバル世界にアクセスしようとしてきたが、本当の意味での「グローバル世界」を生きるということは、純血を守ることではなく、大阪なおみ選手の持つ「日本人らしさ」の精神性を維持することなのかもしれない。

ここで、「維持することだ」と断言できず、そのように変わろうと決意を表明できない部分に、ムラ社会で生きてきた頑固さが僕に残っているのである。なんとも悩ましいことだ。頭では分かっていても感情が付いてこないのである。感情をもてあます最近である。