学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

モラル・ハザード

最近の不祥事を見ていると、「モラルが崩壊している」の一言に行き着くのではないかと感じている。文科省収賄自民党総裁選、沖縄基地問題東京オリンピックのボランティア問題、銀行員不祥事、東京医科大、大相撲や日大やボクシングなどのスポーツ、大塚家具経営破綻、東芝や神戸鉄鋼など、世間を騒がせるニュースを耳にするたびに、当事者にモラルがあれば問題にすらならなかった問題と思ってしまう。

つまり、一連の不祥事は、制度やシステムの問題ではなく、運用の問題である。戦後に設計された制度疲労やシステム不全があるのは確かだろうと思うが、もっとも疲弊しているのは人の心のほうではないかと思う。運用する側の心構えがきちんとしていれば、ある程度は制度疲労やシステム不全は補える。

もちろん、制度やシステムは性悪説に基づき、どのような人が運用しようとも一定水準の成果を上げられるように設計されている。そこのところでマンパワーに頼るような制度やシステムは立案の時点でアウトである。人の良さ、人の好意を当てにした設計は人を犠牲にするだけである。

だからこそ、制度やシステムでは、チェック監査機能が十全に働くようにしなければならない。制度やシステムにおけるチェック機能の重要性は、その機能が過不足なく動くために必須である。民主主義でも国家でも会社でもプログラムなどでも、およそチェック機能が不十分なところでは制度やシステムは脆く崩れ去るしかない。

今回の一連の不祥事では、たいてい、このチェック機能のところが破綻している。もっともあからさまな例で言えば、日大で内田氏が運動部を統括する保健体育審議会の局長職にあったことである。管理する方とされるほうが同一人物であれば、監査機能が働かないばかりか、制度やシステムを意図的に破壊したに等しい。制度やシステムがきちんと整っていても、骨抜きにする運用法である。このことは、銀行など他のところ大なり小なり同じである。

ということは、人の心を育てなければならない。職に対する矜持、技術に対する誇りといったものは今こそ必要とされている。宗教が崩壊したと言われているが、今後は宗教的な何かが興隆してくると思っている。なぜなら、多くの人々が今、住みにくさを感じていると思うからだ。