学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

他山の石と成せ

昨日のブログをアップしている時と同じくして、日大の内田監督と井上コーチの会見が行なわれていた。それにしても、ひどいもので、昨日のブログで予想したように直接的に学ぶことはなかった。しかし、「過ちて改めざる、是を過ちという」という論語の言葉を地で行く会見を「他山の石」として学んでみたいと思う。

まず、内田監督の「信じていただけないと思うんですが」という前置きはいただけない。釈明会見という性質を理解していない。最初から理解していただくという姿勢が欠如し、開き直りとも受け取れる。ここで「釈明」会見と記したのは、本人たちにとって「謝罪」会見ではなく、世間の誤解と中傷に対する言い訳、つまり「釈明」を中心に据えた会見に思えたからだ。

さらには、井上コーチが人身御供にされたとの印象がぬぐえない。内田監督を守るために、井上コーチが全部背負っていくと、彼の体育会系そのままの話し方を見ても、体育会系が陥りがちな誤った忠誠心が発露したという印象しか残らない。後味は非常に悪い。30才の井上奨コーチが62才の内田正人監督を自らの人生を犠牲にしてかばったのではないかと邪推してしまう。「前途ある有望な若者」の人生を壊した定年間近な「先輩」の身勝手である。井上氏がコーチを辞任する一方で、内田氏は進退を大学に預け、一時謹慎するという。日本人の美徳、桜の散り際とは対照的である。

また、彼ら2人とも「正直」という言葉を連発しすぎているようにも感じた。この言葉を言う必要があったというのは、よく見れば「信じてもらえない世論」を感じていたからとも言えるが、穿って見れば「嘘つきだから」とも言える。人は後ろめたいこと、嘘を付いている自覚があるときには、信じてもらおうと冗長になるものだ。今回の「正直」という言葉の連発は、「正直でない」からこそ強調する必要のあった、嘘を糊塗するものに聞こえた。言動が嘘にしか見えないから、言葉で「正直」であることを補足した。本来は言動で「真実」を感じてもらわなければならない。

この意味で、「誠実」とは言葉にせずとも「正直」が伝わるものでなければならない。内容が悪いことでも、都合の悪いことを認めて「正直」に話せば、その姿勢は誠実と映るのである。

なお、今朝、内田監督が日大病院に入院したとの報道に触れた。心や身体の不具合以外でも、都合の悪さでも入院できるが、それが系属(系列)の日大病院というのも印象がよくない。悪手ばかりをこれでもかとばかりに打ってくる。そして、会見時の司会者(広報担当者)の仕切りもひどいものであったが、日大理事長がマスコミに追撃取材された時の理事長の態度も驚くものであった(この時期に繁華街を歩いていた)。「私は関係ない。私は相撲部だ。知らないよ!しつこいね!大学と部は別!」と反応したのだ。日大関係者の質は、これで推して測るべしである。最高責任者の発言である。麻生さんでも、把握しきれない一末端役人の不祥事に関係ないとは言わなかった。

それにしても、森友問題、加計問題、そして今回の事件の取材を見るに、マスコミは捜査機関かと見紛うほどである。マスコミの逸脱した正義感は毒でもあるということもまた、付言しておきたい。