学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ハレの日は戻らず

振り袖販売・レンタル業「はれのひ」(横浜市)が突然休業し、成人式に晴れ着を着られない新成人が続出した事件をめぐる一連の報道に接し、いろいろと日本文化が表出しているなぁと感じた。本文を始める前に、まず被害者の皆さんにお見舞い申し上げます。

さて、まず店名の由来と思われる言葉は、「ハレの日」である。「ハレ」に対応する言葉は「ケ」である。これは、民俗学者柳田國男(明治8年~昭和37年)が日本文化に昔から存在してきた意識として提唱したものだ。「ハレ」は、神社の祭礼や寺院の法会、正月・節句・お盆といった年中行事、初宮参り・七五三・冠婚葬祭といった人生儀礼など、非日常的な行事が行われる時間や空間で、これ以外の普通の時を「ケ」という。

ちなみに、のちに文化人類学者の波平恵美子(昭和17年~)たちのグループが、ハレとケのいずれとも対立する「ケガレ」という概念を加えた(神道でいう「穢れ」とは多少ニュアンスが異なる)。波平は「ハレ⇔ケ⇔ケガレ⇔ハレ」と相互間が対立概念であると主張したが、同じグループの桜井徳太郎(大正6年~平成19年)は、「ハレ⇒ケ⇒ケガレ⇒ハレ」という循環論を主張した。

現在では、「ケ」と「ケガレ」は区別がややなくなった感があるが、「ハレ」は「晴れの舞台」や「晴れの日」、「晴れ着」といったように生き残っている。日本人が成人式という人生儀礼を「晴れの日」と捉え、特別な思いを抱いていることは明らかだろう。

しかるに、横浜市が被害者を中心に成人式を再度行なうことを検討しているというニュースが流れた。ここで僕は違和感を覚えた。着物を着ることがしたいわけではないだろう。「成人の日」という非日常空間で着ることに意味があるわけで、親戚同級生の集まる「この時この瞬間」でなければ意味を失うからである。被害者のみを集めてやり直したところで、本末転倒ではなかろうかと思うからである。そこにマスコミが殺到したら、被害者晒しであり、傷口を広げることになりはしまいか。

もちろん、その人生儀礼は人生で一度限りのもので、これを台無しにした業者は責任を取り切れるものではないし、その被害者へ向けての横浜市をはじめとした周囲の温かい気持ちも感じられる。「せめて」という気持ちなのだろう。しかし、である。「ケの日」に「ハレの日」は、日本人の意識としてできないであろうと思う。祝日という日本全体の空間の中でやること、特別なハレを作り出したところでやらなければならないのだ。

ところで、話は変わるが、成人が18歳に引き下げられることになり、今年、民法など関連法が25前後変更される。選挙年齢は既に変更されているが、関連する法律は今年中に改定される予定である。さて、来年から成人式を18歳にするならば、19歳の子たちはどこでハレの日に接することになるのだろうか。「特別な日」をきちんと履行することこそ、大切なことである。