学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

論理と人情

先帝陛下のご兄弟は、秩父宮様、高松宮様、三笠宮様がおられ、三笠宮様には寛仁親王殿下、桂宮様、高円宮様がおられたが、すでにお隠れになられた。今上陛下のご兄弟には常陸宮様(81)がおられる。皇位継承者は徳仁親王殿下(57)、文仁親王殿下(51・秋篠宮)、悠仁親王殿下(10・秋篠宮)、そしてさきほどの常陸宮様(81)である。

平成31年徳仁親王殿下が即位されると、皇位秋篠宮様、そして秋篠宮ご嫡男の悠仁親王殿下、常陸宮様と3人になる。皇位の安定継承のためには、悠仁親王殿下お一人にかかってきている。

さきのご退位検討をめぐる有識者会議では、保守派から「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」との意見が出されたことに、陛下がショックを受け、「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求め、「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」と不満を示されたと伝えられている。

僕自身は、有識者会議で出されたこの発言は、最低限のラインを示したものとして認識している。天皇天皇であるための必須条件ということである。続くこと(男系継承)と祈ることをしないのであれば、それは天皇としての存在意義を失うであろう。もともと天皇家天照大神の子孫であり、日本神道の頂点に立つ神官である。天照大神の血を継承すること、神道の神官として祈りを捧げることに天皇の本質があるとすることに異論はない。

しかし、戦後、「象徴天皇制」という制度が成立し、先帝陛下と今上陛下は、その在り方について試行錯誤を重ね、一人一人の国民と向き合い、その労苦をともにした上で国民の安寧と平穏を祈るという現在の姿を作り上げられてきた。2677年(皇紀・紀元前660年の神武天皇即位を紀元とする数え方)以来、天皇はその在り方を大きく変えてきており、その都度、適切な在り方を検討し、実践してきた。

その意味で、継承と祈りさえしていれば天皇であるという保守派の発言は、今上陛下が全身全霊を込めて取り組んできた「象徴天皇」の在り方を否定するものになる。しかし、そうした新しい天皇の在り方は、いわば質的向上であり、祈りという行為をただ祈るという空虚なものにせず、きちんと真に意味がある血の通った祈りにしようというものである。形骸化させず、国民に寄り添う形で中身を伴うものにとのお気持ちを示すことが、国民主権の時代にあって象徴天皇制天皇たる姿であるとの改革である。

とはいえ、先の保守派の発言が提示した継承と祈りが成立しなければ、形式的にですら後世に伝えられなくなってくる。「万世一系の継承」という伝統文化を次世代に繋げていけないのであれば、祈りがどれだけ質的に充実しても無意味になってしまう。なくなるくらいなら形式的にでも存在させたいという人々(保守派)がいても不思議ではない。そのための議論の時間の確保を、先延ばしでしかないが時間の確保をして、陛下の退位を認めないとしたのであろう。

これは陛下の人間性や人権を無視した考えである。しかし、象徴天皇制を定めた現日本国憲法天皇に人権を認めていない。天皇とは何かと定めて皇族を除外した上で、国民について述べるという順序を採っている。だから、皇族に職業選択の自由や居住移転の自由を認めていなくても「法的に」問題ない。こうした前提を受容している以上、さきの保守派の発言は非難一辺倒になるわけではない。人に不誠実でも法に忠実なのだ。法の遵守は近代国民国家の前提である。

よって、皇位の安定継承のためには手段を選ばず、側室を置くことも検討すべき課題である。いわゆる重婚だが、天皇家には国民に適用される法は適用されないので問題ない。これがダメだというのなら、現代の技術をもってして体外受精でもなんでもすればいいと僕は思う。天皇家の第一の仕事は男子をなすこと、次いで祈ることである。どのように男子をなすか、どのような祈りとするかは質的な問題でしかない。

こう書いてくると、血も涙もない非人間的な思考をしているなぁと、つくづく思う。