学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

楽観的に目標を見て、悲観的に手段を考える

昔、自分の影響力が自分のみだった頃、あるいは友達と対等に接している頃、僕の発言は自由気儘に思った通りを言っていれば済んだ。ところが、いやしくも教壇に立つようになると、その発言は「回答」ではなく、ある種の「正解」になってしまうのである。僕の回答は一つの選択肢ではなく、正しいを示す確かなナビゲーションとして受け止められてしまうようになった。

それは、学生との年齢差も大きな要因であろう。多く学生に接してきたであろう経験を買われ、「先生」という立場が「正解を教える人」とのイメージを後押ししてしまう。僕自身は議論を好み、正解のない「宙ぶらりん状態」を楽しむ性向があるのだが、学生のほうはそうではない。正解を求めて「先生」のもとに来るのである。

こうしたギャップに触れるにつけ、僕は自らの認識を変え、影響力の大きさというものに自覚的にならざるを得なかったわけだが、その過程で身につけた思考法は、「先生」でなくても役立つと確信している。その思考法とは、表題にある「楽観的に目標を見て、悲観的に手段を考える」ということである。

目標や理想を掲げる際には、楽観的に且つ大胆に定めれば良いと思う。それは、人間の可能性への探求であり、冒険である。こうした意欲的な挑戦は、老いを覚えようとも果敢に高く掲げたほうがよい。そうでなければ、人生は色褪せたものになってしまうであろう。あれこれ妄想していくことは、精神衛生上、いいことでもあると思う。

一方で、その理想に至る手段については、最悪の事態を想定して悲観的になるとよいと思う。最悪の想定は、言葉を換えればセーフティネットを確保することであり、命綱をつけて谷を渡るに等しい。谷底へと落下することを想定するから命綱をつけるのであって、僕は命綱を必要とするから止めなさいとは言わない。命綱をつけてから挑戦しなさいと言う。

しかし、実際には僕は悲観主義者だと評されることが多い。というのも、一見すると無謀にも思える高い理想を掲げるのは相談相手であり、そこに命綱の必要性を説くことが僕の役割になるからだ。あたかも野望に燃える青年を僕が引き留めるような形になってしまうことが多々ある。表面に出てくる僕の言葉は、多く悲観的なのだ。大きな夢を掲げて無謀な挑戦をしていく人を見ることを僕は愉しく思う。にもかかわらず、時にブレーキになってしまう。

このあたり、僕の未熟さであり、決して引き留めているわけではないことをしっかりと伝え、その実現を応援しているからこそ、失敗のないように、実現するように、手段を滞りなく揃えようとしているだけなのだと理解されるように努めようと思う。悲観的なのは現実主義者だからであり、この立ち位置は理想を現実化しようとする最もよい手段だと思うからである。理想主義者はえてして楽観的で、運不運によって、その実現が左右されてしまう。実現は意思によって打ち立てるものなのだと僕は確信している。