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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

表世界と裏世界

久方ぶりの更新である。言い訳にしか過ぎないが、年度の終わりと始めは目を回すような忙しさで、ブログ執筆を怠けていた。この間、各方面から何人か書くように促されたが、今日の今日まで延ばし続けてしまった。

さて、今回のテーマであるが、森友学園問題を巡って旬の言葉となった「忖度(そんたく)」である。これはマイナスの言葉としてニュースなどで語られているが、ここに違和感を覚える。「忖度」というのは、コトバンクによれば「他人の心を推し量ること」である。国会の与野党の議論で、国有地売買において官僚の「忖度」があったのか、なかったのか、日々報道された。籠池泰典理事長も記者会見で連発し、この言葉は外国人特派員たちを大いに混乱させた。なんとも外国語に翻訳しづらい言葉であり、ということは日本文化に深く根付いた概念だということである。

そもそも、日本社会において「忖度」することは当たり前の日常である。言い換えれば、「空気を読むこと」であり、「おもいやり」の心を持つということである。オリムピックを巡って「おもてなし」という言葉が注目を浴びたが、これもやはり外国語に翻訳されることに馴染まず、「Omotenashi」となった。「Mottainai(もったいない)」と同様である。

同じ「相手の気持ちを推し量ること」なのに、「忖度」は悪いことに、「空気を読む」ことや「思いやりの心を持つ」ことは良いことになってしまった感がある。はっきりと言葉に直して直截に気持ちを伝えることをよしとせず、相手の気持ちを忖度して円滑にコミュニケーションをしようという日本人の美徳を表す言葉が汚されてしまったように感じる。

もちろん、公正と公平を旨とする役人がこれをしてよいのかという問題は別である。民間では「忖度」「心付け」は当然のように行なわれる人間関係の潤滑油である。役人には禁止されている「お中元」や「お歳暮」などの季節の挨拶も、民間では当たり前であるが、西洋から取り入れた役人システム、すなわち合理的で効率的なシステムにおいては、言語と同様、馴染まないものなのである。ある意味で、伝統的な日本社会とは隔離された世界である。

こういう「異世界」の産物を同じ土俵に出して表沙汰にしてもケリはつかないであろう。なぜなら、推し量る対象の「気持ち」も、推し量ろうとした主体の「気持ち」も、内面的なものであり、証明という西洋合理システムの論理の中では説明のつかないものであるからだ。それを国会の中で時間を費やしても、国会に論理性が欠けていることの証明にしかならないであろう。

日本文化に根ざした伝統社会のものと、近代西洋の合理的価値判断との折衷した世界に生きている我々であるが、こうした質的違いは意識していかなければならないだろう。でなければ、不毛な議論にくたびれ果ててしまうことになる。そして、伝統的社会は陰に追いやられ、西洋近代システムが闊歩しているのが現状である。

ここに、いわゆる「表」と「裏」がある。そして、表世界の論理が西洋合理システムである以上、裏世界は表世界に出たらアウトになる。それでも、裏に追いやられている世界観は、日常生活に深く根付いた文化なのである。このことに自覚的でありたいと思う。