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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

政治家の資質

政治論考

TPPを巡る国会の攻防戦が続いているが、民進党は非常に見苦しい。党首の「あなたがそれを言うか」という発言が相次ぎ、自ら身を正すべきではないかと呆れつつ、ニュースに接している。あのいつも立てている長い襟を正すべきと思いながら。もし僕の発言が不当であれば、件の人物の説明責任が一国民たる僕に届いていないということだ。

しかし、今日、それよりももっと非常に腹立たしい映像を見た。以下は朝日テレビ系列のニュース映像のスクリーン・ショットである。

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なにが腹立たしいかと言えば、皇室の政治利用である。今上陛下は譲位について政治的発言とならないように最大限の注意を払われた。昭和天皇は、いかなる発言も政治的に利用されないよう、受け答えを「あ、そう」に定められた。お二方とも憲法に定められた立憲君主制の枠組みを踏み外さないように、きわめて注意深く努めている。権力を持つ者として、権力の行使には非常に慎重であるということだ。いかに政治的権力は持たないと定めたところで、陛下のご発言による影響力は大きいからだ。権力に対して非常に自覚的である

一方で、制定法上でも実質でも権力を持つ「政治家」にあって、その権力行使は非常に無自覚的である。山本大臣よりも深い反省と謝罪が必要な発言であろうと思う。政治的責任は政治家が負うものであって、陛下には及ばないようにすることこそ、政治家の務めである。天皇の国事行為はすべて内閣の助言と承認を必要とする。これこそ、皇室の政治利用をさせない仕組みなのである。それなのに、政治家の側がそれを政治の場に持ち込んだ。

皇室の側が憲法を守り、護憲の精神を貴んでいるのに対し、民進党の政治家の側は憲法を蔑ろにしているか、軽んじているように感じる。憲法で定められた仕組みを弄んでいるか、政争の具に持ち出してきているように感じる。日常で護憲を叫んでいる人たちだからこそ、ゆゆしきことだと思う。その意味するところをきちんと学び、尊重して欲しい。憲法は第9条だけではない。

前回の投稿でも今回の投稿でも、僕自身が改憲か護憲かどちらの立場なのかは明確にしていない。それは、ここではそれが問題ではないからだ。政治家に論理一貫して欲しいと望んでいるに過ぎない。その意味で、現状、その提案する内容の是非はともかく、一貫性や論理性、説得力ある行動は、与党のほうが勝っていると判断しているに過ぎない。政策内容への是非を検討することなく、どちらの主張が耳を傾けられるかという、実に次元の低い政治論を展開している。しかしながら、それが必要とされる現実がある。

政治家の品位の低さは、海を越えたアメリカでも同様である。週が明けた火曜日にはアメリカ新大統領が決まる。選ぶ語彙、話し方のどちらにおいても品位を感じない。となると、フィリピンの大統領もそうであった。韓国でも大統領の行為に対する口汚い批判が横行している。綺麗事を並べ立てるよりも、「ぶっちゃけたこと」を赤裸々に語ることのほうが受けている。時代はそうなのかもしれない。

ここまで考えて、ふと、果たして政治家に品位が必要な素質なのだろうか、と。能力さえあれば品位は二の次というのが政治家に求められることであろうか。確かに、第一の素質は政策立案能力ではある。しかし、「批判する政党ではなく、対案を出していく政党に生まれ変わる」と宣言を出した政党の、相変わらずの批判と議論に参加しない姿勢には、品位以前の問題があるのだろう。ここまで考えて、賛否はあるものの、犯罪数を劇的に減らした品位のない大統領を戴く国民を羨ましくすら感じてしまう自分がいた。