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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

欺瞞の世界

政治論考

核兵器を法的に禁止する初めての条約の制定を目指す決議案が国連総会の委員会で採決にかけられ、123か国の賛成多数で採択された。この決議はオーストリアなど核兵器を保有しない50か国以上が共同で提案したもので、核兵器を法的に禁止する初めての条約の制定を目指して、来年3月からニューヨークで交渉を始めるとしている。

決議案は、日本時間28日朝、ニューヨークで開かれている国連総会の第1委員会で採決にかけられ、賛成123、反対38、棄権16の、賛成多数で採択された。採決では、核兵器の保有国のうちアメリカやロシアなどが反対したのに対し、中国やインド、パキスタンは棄権した。また、日本は、核軍縮は核保有国と非保有国が協力して段階的に進めるべきだとして、反対に回った。

こうした「防衛」に関するニュースに触れるたび、「建前」と「本音」、「現実」と「理屈」の衝突を感じずにはいられない。

いわゆる護憲派(第9条)・平和主義という「建前」と「理屈」に対して、政府の現実的対応の衝突である。この政府の現実的対応は、たとえば、今回の決議で言えば、アメリカからの強い要請に応じて日本は反対に回ったといわれるような、対米従属が批判されることにもなる。この構図は何なのか。

原則に戻って、第9条から考えると、日本は「国際平和を誠実に希求」して、「戦争と武力の行使」を永久放棄している。この実現のために「戦力は保持」しないとしているのが第9条の骨格であろう。これを文字通りに解釈すれば、自衛隊の存立する余地はない。自衛隊を「戦力」と見なさないのには無理がある。この点では、護憲派や平和主義者は正しい。しかし、戦後70年間、日本はこれによって平和を貫いてきたというのが護憲派や平和主義者の主張は、欺瞞である。

というのも、戦後の冷戦構造の中で、日本は「まともな戦力」を有しなくとも、日米安全保障条約を通して、世界最強のアメリカ軍を傭兵のように後ろ盾としてきたという現実から目を逸らしているからである。日本が平和を維持するためには、「戦力」を間接的に海外において、現実には国内に外国基地を抱えることによって、「戦力」を保持してきたからに他ならない。つまり、日本の平和はアメリカとの良好な関係を維持することによって保証されてきた。現実世界では、平和を維持することは戦力を保持することと等位なのである。

このことはそのまま、いわゆる「対米従属」を招く。つまり、「対外国従属」は日本が憲法によって定めたともいえるような「構造的問題」なのである。およそ独立国家は自国防衛の義務を負っている。近代民主国家の基本が国民の「生命と財産を守る」ということである以上、国家の自国防衛は義務である。それを憲法によって縛るのであれば、現実的に国民の「生命と財産」を守るためには外国(同盟国)に拠らざるを得なくなる。

護憲派や平和主義者が「戦力の放棄」を主張するのであれば、彼らは国防をどうするのかに答えなければならない。戦力を持たずして国家の基本たる国民の「生命と財産を守る」役割をどのように達するのかについて、対案を示さなければならない。どのようにして「国際平和を誠実に希求」するのかという問題である。この答えを示さずに反対と批判のみに終始するような政党は不要である。

政府は政府で、過去の「自衛隊は自衛力であり、戦力にあたらない」という理屈の通らないむちゃくちゃな解釈による欺瞞を続けていないで、きちんと憲法論議を果たしていかなければならないだろう。それを受けて、国会では与党野党を問わず、憲法論議に向き合わなければならない。昨年成立した集団的自衛権の行使を一部容認する法律に則って、今般、南スーダンでの「駆けつけ警護」訓練が耳目を集めているが、これとて現実的選択であるが理屈は通っていない状態なのである。政府の欺瞞が批判の対象になることもまた、自然である。

問題は国家の成立要件たる「自国防衛」である。さらに原則論を言えば、憲法は国家があって初めて成り立つ。憲法を守って国が滅ぶようなら元も子もない。「建前」や憲法条文の解釈をめぐる「理屈」を後生大事にして国家の成立条件を脅かしては、なんのための憲法であろうか。現在の左右両派のそれぞれの欺瞞状態を続けている限り、集団安全保障や自衛隊をめぐって、いつまでも不毛な議論が続いていくことになる。