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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

盗っ人猛々しい

今日は暦では「大暑」。24節気の一つで、一年で最も暑い日と言われるが、僕の住む関東では梅雨明けが遅れ、23℃と5月の陽気である。季節感が狂う昨今ではあるが、狂ってきたのは人の感覚、人の常識も同様のようだ。

奨学金を巡る問題が、少し前から巷間話題になっている。政府も「給付型奨学金」創設の検討をしているという。この問題は、一括りに「奨学金を負っている人」を対象とするには、語弊を生じる。奨学金の趣旨を鑑みて、受け取るにふさわしい人が存在するからだ。僕が問題としたいのは、大学へ進学することを当然視し、返せないことを開き直り、帳消しにしろと「強く要求している人々」だ。

これは、今の時代、多くの人が車を持ち、家を持っている(借りている)。だから「車や家を買いました」「ローンをしました」「払えないから払いません」「もちろん、車も家も僕のもの」「政府が徳政令を出すべき」という暴論と同じである。「奨学金」という表現が悪く、「学生ローン」「教育ローン」と改めるべきだとの主張はもっともだと思う。利子や負担割合は大きく異なるので若干の語弊は生じるが、それでも「借金」という本質は変わらない。

しかしね、借金を背負ったのなら、学生時代の節約やバイト収入を貯めていくとか、そうした慎ましい生活を送る覚悟をせねばならない。車や家のローンを背負ったのなら、それなりに節約・倹約に努めるのは普通であろう。普通の生活をして楽しい学生生活を送り、勤労収入でもない収入もどきを得て勘違いした生活を送り、そのツケが回ってきたら返さないというのは、もらい者勝ちではないだろうか。そんな資金を提供する人はいない。それを国としてやるというなら、納税者として僕は反対である。

このことは、生活保護でも同じである。生活保護を受給するのはかまわない。しかし、それは「平均的な普通の生活」をするのではなく、「最低限の生活」をする慎ましいものであるべきだし、権利として図々しく主張するものではなく、申し訳ない気持ちを持って感謝するべきものである。普通の生活をして学生生活を謳歌して、その費用をよこせとはおかしい話である。苦学生を見れば援助をしようと思うが、やれ飲み会だのやれ遊園地だのということにお金を使い、本を買うお金がないという学生を援助する気にはなれない。

僕の知り合いに、朝に新聞配達をして学費を稼いだり、親に大学進学を反対されて高卒で働いて学費を貯め、20才から大学へ通った人もいる。大学進学は、「みんなが通うから僕も」という類いのものではない。なにをしに大学へ行くのか、費用対効果も考えて、大学で得ることについて、真剣に考えるべきことである。家を買うのは一生の買い物として、よくよく検討するものである。同じように、若い20才前後の時間と数百万円というコストを考え、それで通いたいとするなら、行くべきである。そういう人が進学しようという際に経済的困窮にあるなら、助けようというのが奨学金の本来の趣旨である。

もちろん、社会や大学の責任もある。社会は大学へ行くことを採用の条件にしたり、大学も中身のない遊び場と化している内容を改めるべきである。社会は大卒でなくてもできる仕事に大卒資格を求めないことを、大学はきちんと高度な専門性を身につけなければ学位は授けないという厳しさを持つべきである。実際に工学や薬学などの理系学部では就職率が高い。それだけの専門性を有しているからである。一方で、社会はすでに大卒レベル給料(高い専門性に対するコスト)を維持できず、大学は経営のための学生確保に走っているというような現状こそを改めるべきである。

格差社会というような社会問題の側面もあろうが、奨学金返済をできないという人は、果たしてどのような学生生活を送っていたのか、大学で習得する高い専門性を身につけるべくどのような努力をして身につけたのかと自問してみるべきである。努力だけではダメである。きちんと結果を得たのかということは重要である。一生懸命に取り組んでも、サービスの質が悪ければ、その人は職を失う。これは社会の現実である。それでも金をくれというのは、おこがましい甘えではなかろうか。

本当に学費を必要とする学生には、給付型奨学金を給付してもよいと思うし、そのための制度作りにも賛成である。しかし、財政難の国家や地方自治体の状況を思えば、垂れ流すわけにはいかない。学生は学生で、そうした制度に感謝し、精一杯に高い専門性を身につけるべく勉強に励むべきである。大学教育が与えられて当たり前というような厚かましい考えは捨て、自分の行為と成果に社会が応援してくれるものと捉えるべきものである。そこで身につけた高い専門性を活かして社会へ還元していくからこそ、先行投資として社会が学生に給付するのである。だから、行為を慎ましく、成果を出すべく努力する。これが本来のあるべき姿である。

まじめに生きている人たちが苦しんだり馬鹿を見るような不公正を正し、遊び金を手にしてたいした成果も出せずにいる者には、約束が違うと厳しく借金取り立てをしてほしい。もちろん、借金をしても、きちんと返すなら、どのような使い方をしてもかまわない。しかし、奨学金は利子率などを含めて優遇されている借金である。あまりにも怠惰な使い道については、給付者としての社会が学生に苦情を言うこともできるようにするべきだ。

たとえば、単位をAレベルで何個以上取得すれば給付型に、そうでなければ無利子貸付型に、最低ランクや単位を落とした場合には通常の利子率適用に、というような制度設計もよいかもしれない。ちなみに、本気で学び、優秀であれば、現状でも企業や団体などが給付金型奨学金を提供していることは、強く伝えておきたい。