学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

18歳選挙権をどう見るか

 6月19日に改正選挙法が施行されて、今夏の参議院選挙より18歳選挙権が実施される運びである。これをめぐって、テレビや新聞などで議論が交わされている。施行されてから何をいまさらとも思ったが、実際に18才、19才の新有権者に投票に行くかどうかと問い掛ける形のものが大半であった。この意味では、実感を伴ったところでアンケートしているのだから、意味はあるだろう。

 そうしたアンケートの中で、投票に行かないと答えた新有権者の心配事はおよそ次のようなものである。彼らの政治的判断が未熟であること、政党や候補者の公約や人柄を知らないこと、政治的争点や懸案についてよく分からないことを中心に、自らが投票にふさわしい能力を備えているか否かについての心配である。だから、テレビなどの特集では、付随的に高校での取り組みというものに話題が移っていく。そこでは社会科教師が四苦八苦しながらも試行錯誤した優秀な有権者教育が行なわれていた。

 そして、スタジオでは、賛否両論を携えた大人たちがあれこれと言っている。これに違和感を覚える。僕自身は不惑の40歳を迎えたものの、今もなお自身の未熟を痛切に感じているから、自分の政治的判断が正しいのか、間違いなく出来ているのか、と常に怯えている。あるいは政党や立候補者についてきちんと調べたのかと言われれば、過去の選挙において胸を張れるほどに取り組んだことは一度しかない。投票にふさわしい能力を備えているか否かという問い掛けをされたら、僕は今回の高校生以上の答えを持ち合わせていない。

 こんな条件を出されてクリアできる人は、おそらく、ほとんどいない。安保政策や消費増税などのときの街頭インタビューを思い出せば、今回の新有権者たちにひけをとらないほど未熟で、知っていなくて、印象だけでものを言っている人が多いことに気付くだろう。20歳で成熟して18歳は未熟でというふうな視点から見ている限り、議論は意味のないものになる。線引きを18でするのか20でするのかに大義はない。30だろうが60だろうが政治的には未熟な人が多いという現実がある。これは当たり前の話である。皆が皆、政治家ではなく、実際には政治の素人なのだから。それが民主主義というものである。

 だから、有権者というものを「投票にふさわしい能力を持つ人」というような資格的な捉え方をしてはならないのである。18歳が未熟だから選挙権を与えてはならないというのなら、同じ理屈で痴呆症や認知症の老人からも選挙権を取り上げなければならないが、実際にはそんなことにはなっていない。それは痴呆症や認知症の人々の意見を代理人を通して表明してもらおうとしているからだ。つまり、18歳選挙権は、日本という社会が彼ら若年層を必要とした結果なのだ。少子高齢化による社会バランスの悪化を防ぐために、若年層の割合を少しでも増やしていこうとする策なのだ。この日本社会の要請に若者は存念を伝えるだけで、充分に有権者なのである。