学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

伝統と革新の混在

アメリカは世界的にも先進国で、奴隷制度の廃止、民族自決原理、女性の権利の保護など、多くの政策を実行してきたことで知られる。女性に開かれた社会、女性の社会進出、女性の管理職の誕生など、フェミニズムさかんなお国柄である。

先日、民主党の大統領候補ヒラリー・クリントン女史に決まった。マスコミは女性初のアメリカ大統領の誕生かと取り上げているが、そもそも国のトップを巡る事情においては、アメリカは後進国である。女性大統領が話題になること自体、遅れていると言わざるを得ない。1974年のイサベル・ペロン大統領(アルゼンチン)を始め、今年5月に就任した蔡英文総統(台湾)に至るまで、女性指導者は世界にたくさん存在している。中華人民共和国にもいたというのは驚きである(宋慶齢女史)。

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いずれにせよ、女性大統領の誕生がニュースになるようではフェミニズム後進国である。少なくとも、アメリカを見よ、アメリカを模範とせよといった論調での女性管理職の数値化義務や女性の社会参画を謳うことはやめてほしい。そうした行為が正当で正しいのであれば、誰かがしているからとか、あちらの国ではどうだとかいう理屈ではなく、自立した理屈を持ってきてほしいと思う次第である。諸外国ではどうだからという理屈は小学生の理屈である。お母さんから「よそはよそ。うちはうち」と叱られてしまうのがオチである。

一方で、晩婚化や少子化を憂いているのも、滑稽なことではある。晩婚化や少子化は「昔と比べて」遅くなった、少なくなったということであり、女性が社会進出した現在、それは付帯的に当たり前の現象ではないかと思うからである。一方で働けと言い、一方で家庭に入れという。まともな頭を持っていれば混乱しか引き起こさないであろう。だから今、保育所施設や託児所施設の不足が社会問題になっている。働いて家から出ていても子供を産み育てる環境があれば両立できるからという理屈だ。

これは一見すると理に適っているように思う。また、核家族になる前は祖父母が子供の面倒を見ていただろうから、保育所や託児所が不足するのは、まさに20世紀後半と21世紀前半の社会問題である。子育ては家庭の私的問題から社会の公的問題へと変貌した。しかしながら、子どもは実の親と過ごし、育てられるべきと僕は思っているので、保育所や託児所が施設として充足してきても、そこに「家族」という従来型の集団は存在しえるのだろうかと危惧してしまう。

高齢者の方に目を転じても同じことが言える。老々介護や独居老人が社会問題となるのもまた、核家族社会がさらに進んだ結果である。昔なら祖父母の面倒は家族問題である。介護保険を導入するなど、こちらも今は公的問題になっている。

つまり、家族制度や年金制度、育児や高齢者に関する制度など、従来までの諸制度が崩壊してきているのは、意識をも含めた、そこに住む人々のライフ・スタイルが変化してきたからに他ならない。しかし、現状は過渡期にあり、古いものと新しいものとが混在し、どうしていいのか分からない状況にある。従来通りのやり方で行くものと、新しいやり方で行くものとが混在し、混沌としている。こうした時代には社会不安が付きまとう。最近のさまざま報道される事件の、もっとも目に見えにくい本質的な背景は、実はこんなところにあるのだろうと思う。

だから、社会ではなく個人の力を、自らの力を信じようという動きが広がりつつある。自己修養や自己啓発、身近な人とのつながりに関する書籍が溢れているのも、その一つの証左であろう。