学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ミクロ的問題が根源にある

先日、僕は「学力崩壊の大学教授」という記事の中で、討論をする際には、①事実に基づいた認識、②理想(目的)と現実(手段)を明確にすること、③自分の都合の悪い事実や意見こそ重視する、という3点が非常に尊重されなければならないと主張し、憶測や推測でモノを言うなと書いた。この点で、テレビを視聴している限り、森永卓郎氏、田嶋陽子氏、尾木直樹氏を学者としての基本すら危うい人々だと批判した。

これに関連して、6月8日(水)7時30分配信の次の記事を紹介したい。

この記事の中で、北海道で起きた「小学生置き去り・行方不明騒動」で陰謀論的犯罪性を想起させるような形で父親を断罪して謝罪したり、五輪エンブレム騒動において、デザイン業界や五輪利権を批判する中で事実とは異なる情報を流布して謝罪したりした経緯に触れた後、藤本氏は次のように指摘している。

何の権限や正しい情報があるわけでもないのに、陰謀論レベルの判断で「逮捕される」とか「200億円の利権を受け取る」などと発言することには、いわば「暴力」だ。 

 ここでの藤本氏の指摘は、『教育者として暴力やイジメを否定し、その問題解決に取組んでいるはずの尾木ママ自身が、自分のメディアを使った暴力や虐待には、無頓着である』という矛盾を批判する目的の記事であるから、「暴力だ」と結論付けているが、彼の批判する文言の中には、「とんでもないデマ情報」、「デマや誤認、間違い」、「陰謀論レベルの判断」、「憶測」という言葉が登場する。僕ではない人物が僕と同じ観点から同じ人物を批判している記事を見かけて、つい、紹介したくなった。

ところで、ここでの『教育者として暴力やイジメを否定し、その問題解決に取組んでいるはずの尾木ママ自身が、自分のメディアを使った暴力や虐待には、無頓着であるという矛盾』は、品よく記述しているが、巷間で言うところの「おまいう」や「ブーメラン」という表現に相当する。自らのことを棚に上げて、自らもできていないことに対して他者を批判することに強い反発を感じるのは、どうやら日本社会の特質のようである。

教師は、その生業として、「他者を諭して教える」ことをしている以上、諭し教える内容については自らは出来ていなければならない。したがって、道徳的にも人格的にもきわめて模範的であらねばならない。これは同様に、道徳的には政治家、法律的には弁護士や検事、裁判官、そして警察官にも当てはまる。政治家への道徳的追求、法律家や警察官への法的完全性への追求は、通常の一般人よりもはるかに強いであろう。芸能人という公共への影響力が強い場合にも、それなりに強い追及が為される。

昨今のさまざまな騒動を見ていると、騒動の根本はここに集約されているように感じる。古代ローマの民主政の崩壊は道徳的腐敗・堕落に端を発するとされているが、現代においても、道徳的腐敗・堕落が焦点となり、社会や社会制度という大きなものに対する不安とともに、個人の素質への危機感が存在している。資本主義体制の行き詰まりや崩壊に関する本が溢れ、「論語」や「五輪の書」などが脚光を浴びて複数出版されるなどしている需要は、そのまま人々が感じていることなのではなかろうか。

マクロ的には資本主義体制や民主主義体制、年金制度や社会保障制度、ミクロ的には地域コミュニティや絆、助け合いなどの個人の資質の問題が取り沙汰されている背景には、こうしたものがあるように思う。マクロの問題はミクロに根があり、ミクロに対応することでマクロの問題も解決されるとする考え方である。マクロ的問題を扱った書籍にも、中身では個人レベルの話が取り上げられていることも多い。今の時代は一人一人の在り方が大きく問われている時代なのかもしれない。