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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

皮肉は潤滑油

時事論考

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上の画像は、左が東京オリンピック2020のロゴ、右はアメリカの雑誌の表紙で、招致を巡る過程の中で疑惑があったとされる贈収賄疑惑を皮肉ったもの。ロゴの部分が一万円札になっている。札束が飛び交ったとされる疑惑報道の象徴的な図柄となっている。

皮肉というのはこういうものを言うのだなぁと感じ入った。日本にはあまり皮肉文化は存在しない。皮肉という際どい表現方法は、現代日本のやや窮屈になった表現ルール、委縮した言論社会では避けられるべき形なのだろう。事実のみを淡々と伝えようとするほかはない。でなければ、ふざけているとの批判を受けかねない。

もっとも、江戸時代の日本には川柳という皮肉芸術が存在した。有名なものであれば、「白河の 清き流れに住みかねて もとの田沼の にごり恋しき」というのがある。時の老中、松平定信清廉政治は住みにくく、これだったら賄賂腐敗した田沼意次の政治のほうがよかったと嘆く川柳であるが、時の事実上の最高権力者に対する政権批判である。封建時代からくるイメージに比して、ずいぶんと自由な気風があったことが窺い知れる。他にも、「藪医者の友は遠方より来る」というのもある。藪医者の腕の悪さは近所では知れ渡っており、そこに診療に訪れる人は遠方から来た人ばかり、との皮肉だ。

現代にも第一生命が実施している「サラリーマン川柳」など、川柳自体は残っている。しかし、皮肉たっぷりだが、質的に異なる。いくつか挙げてみると、「皮下脂肪 資源にできれば ノーベル賞」、「沸きました 妻よりやさしい 風呂の声」、「壁ドンを 妻にやったら 平手打ち」、「記念日に 今日は何の日? 燃えるゴミ!」、「増えていく 暗証番号 ヘル記憶」、「あぁ定年 これから妻が わが上司」、「オレオレと アレアレ増える 高齢化」など、皮肉たっぷりで思わずニヤッとしてしまうものの、基本的には自虐的で、その批判の矛先は自らに向いている。これであれば、誰かから責められることもない。安全な批判である。

江戸時代の庶民の勇気、あるいは江戸時代の自由な気風は、ここにはない。ある意味で、中国や旧ソ連のような息苦しささえ連想してしまう。政権や体制側を批判できることは健全な社会の証左であると思う。それを四角四面に批判するのではなく、角が立たぬよう、ユーモア精神を発揮して批判する心の余裕は、社会の潤滑油でもあろう。そして、それを受け止める心の余裕も。こうした精神的余裕のある社会でこそ、人間社会は健全に機能するのだろうと思う。

翻って、昨今の日本は、ユーモア精神を大いに発揮するべきニュースに溢れている。毎日毎日、道義的責任意識を欠いたことに端を発するニュースに事欠かない。自動車の燃費偽装、オリンピック贈賄容疑、舛添都知事の醜聞など、すべて道義的意識の欠如に端を発している。ユーモア精神がいくらあっても足りない時代なのかもしれない。