学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

憲法記念日に思うこと

昨日の憲法記念日をきっかけとして、憲法に関する言説をいくつか見かけた。いわゆる護憲派改憲派かというあたりに焦点があるようだ。そこで、ちょっと考察をしてみたい。

1945年以降に限って国際比較をすると、アメリカは6回、カナダは1867年憲法が17回、1982年憲法が2回、フランスは27回、ドイツは59回、イタリアは15回、オーストラリアは5回、中国と韓国は9回の憲法改正を行なっている。もちろん軟性憲法かどうかという違いはある。日本国憲法硬性憲法で、『第96条の壁』がある。憲法第96条は改正の手続きを定めたもので、①衆議院参議院それぞれで3分の2の賛成、②国民投票での過半数の賛成という2つの高いハードルを定めている。

諸外国でのこうした改正は、激変する世界情勢に合わせて憲法をアップデートしていくという考え方に基づいている。1945年の終戦当時と現代の科学技術の差や少子高齢化などの社会状況を考えれば、1945年当時に想定されていた出来事と現在とこれからの出来事が異なるのは自明のことであり、したがって状況に合わせて適切に変えていく方が自然である。電気が普及した時代にランプで生活することを前提とした制度が不適切であることには、もはや反論の余地はないように思える。

ところで、憲法はその他の法律と決定的に異なる性格を持っている。それはその他の法律が国民や会社などの法人を規制をしているのに対して、憲法は国家を規制している。主権者たる国民が権力者による権力の濫用を許さないために制定したものが憲法である。大和言葉で言えば、あるべき『この国のかたち』に関する規定である。個人で言った場合に生存権が第一に来るように、国家においても国家の独立が第一である。これがなければ他のことはすべて意味を失う。

つまり、憲法論議においては、『この国のかたち』を巡る議論がなされるべきであろう。どういう国際環境の中で、どういう国際環境を希求し、そうした中にあって日本はどうしていくのか、どうあるべきなのか。こうした姿を描くことこそが憲法論議なのである。だから、こうした内容を巡って、あるべき姿で激論が交わされることは大いにあるべきだし、国民の間での了解も醸成されていくべきであろう。

したがって、護憲派とは現在の憲法精神や現在の憲法が目指す姿を守ろうとするもの、改憲派は新しく精神を開拓し、現在とは別の目指すべき姿を標榜するものなはずである。にもかかわらず、現在の論議を見ていると、護憲派とは一言一句を変えてはならないとするもの、改憲派は文言の変化を求めるものというような構図になっている。根本的に言えば、共産主義を掲げている共産党改憲派でなければおかしい。一方で保守政党の与党が護憲派でないとされることにも違和感を覚える。

共産党は、今の憲法における自由で民主的な資本主義社会を前提としている理想の姿に真っ向から対抗していかなければおかしい。現在の体制下に甘んじつつ共産主義を標榜することは茶番である。でなければ、現況に即して修正共産主義、あるいは社会民主主義というように標榜するものを変える必要があると思うが、それでも、改憲派に属する勢力なはずである。いわゆる『他の護憲派』についても、憲法第9条(平和主義・戦争の放棄)を金科玉条に掲げ、いかなる変化をも認めないと議論の前に態度を決めてしまうことは、結論ありきの思考停止状態である。

平和主義という現日本国憲法の精神を守るために、1945年当時から激変した国際情勢の中にあって、どうしていかなければならないのか、どうすればその精神を守れるのか、という内容の議論を通して、そのために必要な改正を図ることは護憲である。子どもだった頃の洋服を大人になっても窮屈で破れた状態でそれでもなお着続けるというのは、おかしなことだ。体は大きく成長している。洋服が体を守り、温かくするものだという本来の役割を考えれば、修繕をしたり買い替えたりすることは、ごく自然である。でなければ、洋服は本来の役割を果たせなくなる。憲法の本来の精神を守るために、修正や改正を加えていくこともごく自然なことのはずである。

文言がどうのという形式的なところで頑なに議論を拒むのではなく、その目指す姿や精神についての中身や内容のある「まともな議論」をしてほしいと願う次第である。修正や改正自体は、諸外国の例を引くまでもなく、普通のことなのだ。肝心なところは、その『国のかたち』をどう維持するのか、どう変更するのかというところにある。今の誤った『改憲派』『護憲派』ではなく、本来の意味での改憲派護憲派の議論を為していくべき時である。