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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

形式と気持ち

およそ2週間ぶりの更新となります。やはり4月という年度初めはイレギュラーなことが多く、てんてこ舞いになってしまいます。いろいろと回りません。ご迷惑をおかけしました。

さて、新学期が始まり、新しい出会いもたくさんありました。大学生とはいえ、先月まで高校生だった諸君と話していると、その初々しさにこちらの身も引き締まります。僕と話すときに緊張して、たどたどしいながらも敬語で話し、しばらくして和んできて緊張のほぐれた表情で話してくれる時、素の学生が見えたりして、楽しい思いをしています。こうして信頼関係を1つずつ構築していけたらと思っています。

ここで1つ、敬語について感じたことがあります。新入生に限らず、敬語というのは非常に人を悩ませるもののようです。日本語には敬語の他に、謙譲語、丁寧語があり、それらをTPOに合わせて適切に使用しなければなりません。昔のように大家族で家庭内に祖父、祖母がいて、近所付き合いも盛んであった頃には日常的なものだったのでしょうが、核家族化が進んだ現在、敬語、謙譲語、尊敬語は学ばなければならないもののようです。

丁寧語は話し手と聞き手が対等な場合で、これを標準とする。敬語はそこから相手を持ち上げて自分との上下関係を作り出し、謙譲語は自分を下げることで相手との上下関係を作り出す。敬語は相手を上にして自分はそのままの位置にいるわけなので、相手は標準より上に位置する。謙譲語は自分が標準より下がって相手は標準の位置に居続ける。だから、相手を敬う気持ちは謙譲語よりも敬語のほうが強い。

こうした構造を把握することが大切と思う。なぜなら、形式的、マニュアル的に敬語ないし謙譲語を学んでも、そこに気持ちが込められていなければ、おそらくは敬語ないし謙譲語を使う実際の場面では支障が生じるだろう。そもそも気持ちを伝える手段が表現なわけで、根本にある気持ちが希薄なままでは、いくら正しい表現を使っていても、白々しいものになるだろう。むしろ使わないほうが実際の運用上はプラスかもしれない。

もちろん、気持ちだけあっても表現を知らなければ伝わらないわけで、最初のうちは形式的に知識を得ていくことが必要であろう。ここを否定するものではない。小中高生が学ぶ際には理屈抜きで知っておけと押し付ける必要性があると考えている。真理の追究は膨大な知識を前提とするし、気付けるか、思いつけるか、閃けるかは知っているかどうかに拠る。だから、詰め込み教育と考える教育は、状況に応じて適切な匙加減を必要とする繊細な作業である。

だから、まずは敬語や謙譲語を知ろうと努めることは大いに奨励されるべきであるが、同時に根底にある「表現しようとしている気持ち」をしっかりと意識する重要性も合わせて意識していくべきである。なにかを依頼する、教えてもらうなどの行為に対して、その点においては相手が自分よりも上位にあると認識し、多忙な中、手間を借りる迷惑を認識し、その気持ちを表現するからこそ、円滑な人間関係となるのである。

これはマナーでも同じこと。食事などのマナーを知ることは大切だが、それを金科玉条に掲げて、会食の時に他の人の面前でマナー違反をたしなめることは、当人にとっては優越感や、ひょっとしたら正義感にも浸れる心地よいことかもしれないが、場の空気は悪くなることだろう。共に楽しく会食するためにマナーが発達してきたことを考えれば、本末転倒である。

言葉遣いやマナーは人間関係の表層的な技術面である。これを重視して人間関係の根底を疎かにすることは愚かな行為である。どちらがより大事ということではない。気持ちがあっても表現できなければ意味がないし、気持ちがなくて表現だけあっても意味がない。言葉遣いやマナーというプロトコルは、お互いにそれが何を表すかを了解していることが前提となる。お互いにその表象に現れた行為が何を意味するのかを了解していて初めて成立するものである。

異文化に属する外国人との交流でもっとも厄介なのは、この相互に了解している事柄が異なるからである。同じ民族・宗教同士ならそうした摩擦は起きにくい。しかし、多様化の著しく進んだ現在、日本人同士だからと当たり前の了解としないで、思い切って相手を異文化に属する人という程度に認識して、相互理解を一歩ずつ進めていくようにしていくべきだと思う。とりわけ、年齢が離れていけばいくほどに。