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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

違和感

時事論考

昨夜21時26分頃、九州熊本県で最大震度7を記録する地震が起きた。震度7阪神淡路大震災新潟県中越地震東日本大震災に続く4回目であり、余震も規模と回数がきわめて多いようだ。まずは犠牲者の冥福を祈り、被災者にお見舞いを申し上げる。

こうした報道に触れて違和感を覚えたことが一つある。他の3つに比べて犠牲・被災者の規模が小さいというような表現だ。18,455人(東日本大震災の死者・行方不明者数)とか6,437人(阪神・淡路大震災の死者・行方不明者数)、68人(新潟県中越地震の死者数)に対し、今朝の時点で死者が9人という数字による比較だ。人口密度や人口比を考慮してとかいう話ではない。

100人が死んだという事件が1つ起きたのではなく、1人の人がなくなったという事件が100件あったということなのだ。死者数に「規模」なんて発想はふさわしくない。また、被害の程度を比較するのも妥当ではない。家が倒壊・半壊してしまったというのは、当人にとって他にも同じ状況の人がいるかどうかは、なんの慰めにもならないだろう。やはり、自宅が倒壊・半壊して途方に暮れている人が1家族いるという事件が複数あると捉えるべきであろう。

テレビの同時性・速報性は、我々に衝撃を伝える。これを僕が最初に感じたのは2001年3月11日のNY同時多発テロの時だ。遠く離れたニューヨークでの出来事がリアルタイムで平和な日常の部屋のテレビに映る。日米間での初の衛星中継が1963年であったこと(その実験放送はケネディ大統領暗殺の放送となった)を考えれば、たかだか50年前には不可能だったことである。それまでは何日も、あるいは何ヶ月も遅れてニュースとなっていたことを考えれば、ものすごい技術の発達であろう。

しかし、その技術の発達の影で、我々は目の前のモニターに映る切り取られた映像に平和な空間から接することで、現実感を喪失した側面があるのかもしれない。見事なグラフィックを駆使した映画の中の非日常な映像に接しているからか、あまりにも想像を絶する非日常的で非現実的な映像を前に、感覚が麻痺しているのかもしれない。これはある意味で、人間の精神における当然の防衛反応なのかもしれない。

とはいえ、数値化をして比較を可能にしてしまうことは慎まなければならないのではないかと思う。もちろん、被災状況を把握し、どのような対応をするべきかを検討するために数値化は必要なことである。それでも、人の気持ちや感情を数値化してしまうことが無意味なように、死者・犠牲者や被災者の数をもって災害の規模を大きいの小さいのと表現することは避けねばならないし、必要時に言う時でも配慮が必要なのではないかと思う。

最後に改めまして、亡くなった方に哀悼の意を表し、被災者にお見舞いを申し上げます。