学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

結果を求める前に

人を説得するには、「筋道」「論理」が必要である。建前の世界では、つまり現実の実生活の中では「論理的に筋道を通すこと」が社会的関係を築く上でとても重要である。似たような言葉で「理屈」があるが、「屈」は捻じ曲げるという意を持つので、筋道を捻じ曲げているという意味になるから、マイナスなニュアンスで語られる。自らの語る筋道が論理なのか理屈なのかは常に検討しながら思考を進めていく必要があるだろう。

さて、「理屈」において何を捻じ曲げるかと言えば、「筋道(理)」である。「筋」はA点とB点を結ぶもの、「道」もまた同様にA点とB点を結ぶものであるから、抽象的に言えば「プロセス」である。この「プロセス」を評価してくれるのは学生までであり、そこから先は結果が重要視される。しかし、この評価外にある「プロセス」がきちんとしていないと、しっかりとした結果には辿り着けないのである。評価の対象外にあるからと言って、ここを疎かにすることはできない。

なぜなら、「世の中、結果がすべて」と言われていたとしても、それは結果を出すには「きちんとしたプロセスに則っていること」が前提だと考えられているからだ。だからチェックしない・評価しないというだけの話だ。結果を評価すればプロセスは検証されているに等しい。結果に納得がいかないとき、結果に怪しさが残るとき、人はそのプロセスを尋ねることになる。ここにおいて「プロセス」が検証されることになり、そのプロセスの妥当性が確認できたとき、人は説得されるのである。

これは部下の指導をする上司にも求められる。もちろん、教師が生徒・学生に対するときも同様である。つまり、およそ「教育活動」においては、学校教育であれ研修であれ、プロセスについて学ぶ必要がある。だから、学生や研修中の社員まではプロセスが評価されるのである。社会に出る前に、ビジネスの現場に出る前に、そのプロセスをきちんと踏めるようにしようということである。

このプロセスには、実は直接的に結果に影響するわけではないものも数多く含まれる。大学の教養課程(1・2年生)で、自らの専門に関わらず広範に各種学問に接するのはそういうことである。そうして専門課程(3・4年生)で培ってきた広範な「一般常識」という横軸に自らの専門性という縦軸を深くするのである。その学びの集大成が「卒業論文」である。卒業論文は、最終章の結論を言うために、長いプロセスを描き出す作業である。この面倒で厄介なプロセスを丁寧に踏むことで、社会に出た後は最終章だけを述べ、説明を求められたら、それ以前の章を適宜取り出し、短縮して伝えていくようなイメージである。

企業などでは朝礼で挨拶訓練をするところがある。このときは通常よりも大きな声で発声する。この訓練状態のままに店頭で挨拶をされたら引いてしまう客がほとんどであろう。にも拘わらず、訓練では120%、150%で練習する。そうすると、実際の挨拶では100%の挨拶ができるようになる。訓練の段階で100%なら、本番では70%にも50%にも落ち込んでしまうだろう。店員さんの笑顔練習も同じである。練習時の笑顔は気色悪いが、それが本番では心地好いものを作り出す。

卒業論文は、社会で求められるプロセスに対しては長大で、実用性から言えば、不要なものを多く含んでいるだろう。しかし、挨拶訓練と同じである。だから、学生の間はもちろん、卒業してしまった後でも、時折、文章を書いてプロセスを追う訓練をするとよい。ある程度慣れてくれば、読書などをしている時にも、著者のプロセスを追って理解を深め、それをもってプロセス訓練に代えることもできてくるであろう。筋道を立て、逸脱することなく結果に辿り着く能力とそれの表現方法の開発は、生涯学習の名にふさわしいと思う。