学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

フーコーさんは言いました

「自己監視システム」は近代以降の人間社会のどこにでも見られる。自分の中に監視者がいて、その監視者がもう一人の自分を常に監視しているシステムのことです。これは日常的には「自律」とか「良心」という言葉で表現されているようなものです。

そもそも、フーコーに拠れば、「人間」は近代の発見ということになります。フーコーはその時代に固有の「知の枠組み(エピステーメ)」が存在していると前提し、ルネサンス時代は「モノの見た目」で区別し、古典主義時代には「モノの性質」で区別し、近代になると「人間にとってそれは何か」で区別していると主張しました。つまり、当ブログの表現で言えば「モノサシ」です。だから近代になると「人間」を中心にした考え方、人文科学(人間科学)が誕生し、経済学、言語学などが誕生したとしています。

しかし、この「人間を発明したこと」は過去のものになりつつあります。無意識や社会構造によって「主体性」や「意識」が支配されていると考えられるようになったからです。人間が意識して主体的に動いているつもりでも、そこには既に無意識下での外部からの影響が潜んでいるということです。これが晩年のフーコーの「権力論」です。僕はこれを「影響力」と呼ぶべきと思います。というのも、強大な組織や個人からの強制的で暴力的な権力を言っているのではなく、上からも下からも横からも、あらゆる方向から権力がせめぎあっているとフーコーが捉えているからです。

ベンサムの考案した「パノプティコン(監獄)」は、中央に監視塔があり、その周囲に円形状に独房が設置されています。そして、監視塔からはすべてが見渡せるのに対し、囚人のほうからは監視塔が見えません。すると、実際には監視者がいないかもしれないのに、囚人は常に監視されていると意識し、規則正しい行動を採るようになります。一人の人間の中に「監視する側」と「監視される側」が誕生します。

これは学校、会社、地域社会などあらゆるところで同様です。他者の「見ているかもしれない」を意識し、自分の中で「あれはしてはいけない」「これはしなくてはならない」という強制力(権力)が働き、内面を規律しています。結果的にルールを守り、遅刻せず、サボらず、泥棒や列の横入りなどの不正はしないという行動になって表れてきます。だいたい、規律から外れるときは、「誰も見ていない」とか「誰にも知られないようにやる」というように、自分自身を説得しているはずです。しかし、こういうものは必ずバレるものです。

やっかいなことに、この「権力者」「抑圧者」は具体的な組織でも個人でもありませんから、選挙や革命のように打倒する手段を持ちません。だから、社会や歴史、制度、文化などの外部からの権力を意識しつつ、自分の生き方の美学を持とうということで、フーコーは最終的に「生存の美学」という倫理の話に帰結したのです。自分の生きるスタイルを確立し、美しく生きることに解決策を見出しました。

僕の指導は基本的にこの路線にあります。2ちゃんねるを見るのも社会、文化、人々の意識を知ることに繋がるし、自分を発見するのではなく自分を作れというのもそうだし、自己を規律して自律せよというのもそうです。「7つの習慣」の「影響力の輪」もそうだし、ドラッカーイノベーションもそう。僕に響いたものは、なんのかんのと「フーコーという監獄」の中にいるわけです。人の感情を無視することなく重要視したうえで、それでも自律せよと主張します。

そのために、理想の自分を作り、自分を知り、外部を観察し、その両者のバランスを取りながら、外部権力に抗って自らの生存の美学を貫く。こんな生き方をしていきたいですね。