学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

対立視点を知ること

昨日の投稿で、知識を集めるということは、深い考察に繋がると書いた。これは知的作業には欠かせないことではあるが、人間の器を育てるためにも重要なことだと感じている。これができると、実は感情的にならないで済むようになるからだ。穏やかで落ち着いた人格を持つ人は、およそ多角的な視野を持っている人だということができる。

喜怒哀楽の感情は、抱いている期待や予想とズレた時に発生する。期待や予想よりもプラスだと喜楽に、マイナスだと怒哀になる。そして、「これから起こること」に対する期待や予想が一つ限りだと、たいていの場合は期待は予想は外れるので、感情の起伏は大きなものになるだろう。さまざまな期待や予想に想像が及ぶのならば、ズレは生じにくくなり、従って感情的な起伏は生じにくくなる。

たとえば、仕事上の出来事で理不尽なことが起きたとする。自分にとっては極めて理不尽に感じることで、許せない。しかし、こう感じるのは、「私」の立場が平社員で一部署のことしか知らないことから起きているのかもしれない。もし、「私」の立場が部長で会社全体や取引先のことまで視野に入っていれば、その理不尽なる決定を「私」も下したかもしれないのだ。

たとえば、人間関係がこじれたとき、思わぬところで自分が相手に無理を強いていたかもしれないのに、自分はそんなつもりはなかった、自分は正しいとお互いに思っていれば、こじれはやがて破綻となるだろう。いわゆる「意地の張り合い」になれば、関係の修復は困難になる。意地の張り合いとは、意見の相違が明らかになったのに感情的にどうしても譲れなくなるのだ。逆に、この意地をぽいと捨てられれば、関係修復は恐ろしいほど簡単になる。

つまり、賢い人は、さまざまな立場から多角的に検討して、今の自分の感情がどの立場に拠るものなのかと相対化し、そうすることで冷静になり、冷静になるから考察や洞察、観察を進めているのである。「相手の立場になって考える」というような助言はよく耳にするものだが、これをなかなか実行に移せないのは、洞察や観察に不足があり、深く考えられていないからである。

相手の立場を知ることは、相手の主張に耳を傾けることが一番手っ取り早いが、必ずしもそうできるわけではない。だからこそ、読書習慣を通してさまざまな角度からの視野を持つようにする必要がある。相手の主張を聞きたくても、立場や環境から言えないということもありうる。建前と本音である。本音では建前とは逆のことを感じているが、それを口に出して明確に言うわけにはいかない。察して欲しいというような場合も大いにありうる。

そして、矛盾を言うようであるが、こうした経過を経たうえで、敢えて反発して受け容れられないと叫び声をあげることは、若者の特権でもある。年長者は苦笑いをするしかない。年長者はかつて通ってきた道として、その若者を快くすら思うかもしれない。それでも、押さえつけなくてはならないだろうが、その年長者が持つ印象は、若者がやらかしたと思うほどにはマイナスなものではないだろう。そういうとき、年長者は若者の叫びの気持ちを充分に理解している。若者と真っ正面から衝突していく場合、その年長者は若者の立場を理解していないにすぎないし、そうした上司は部下からの支持を得られない。

出世していくということは、こうした清濁を併せ呑む度量を必要とする。建前と本音のズレ、相手の立場が正論で正しいと感じつつ現実的に組織人として対処していく汚さをも呑み込まなければならない。清と濁、本音と建前は、同じものに対するまったく異なる視野や立場からの見方である。両者を知って考察を深めて行動ができる。こういう人が増えればいいなぁと思う。