学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

モノの見方の在り方

今日、中国で全国人民代表大会が開かれる。ここでは格差社会貧困層への対策が一つの目玉になっている。日本での格差社会など比ではない。爆買をしに日本に来る人たちがいる一方で、およそ7000万人が年収4万円で生活している。月収に直して約3300円である。この人たちを救うために、中国政府は農村から都市への人口移動を促している。出稼ぎによる農村部への仕送りにより、生活向上を図ろうとしているのだ。

しかし、この都市と農村の交流には大きな課題が存在している。中国には政府公式発表で約300ほどの言語が存在している。地方から都市への移動を言語の壁が阻んでいる。先進国での結果を見ると都市への人口流入はどうかと疑問符が付くが、富を追及する近代化の過程ではそうも言っていられないのも現実である。人々の日常の質的向上は現代政府ならどこであれ、優先課題である。

ところで、この言語問題は日本でも、つい最近まで見られたことである。明治維新の際には江戸開城を巡って九州地方出身の人と関東地方出身の人とでは、言葉が通じず、交渉自体が成り立たなかったという。江戸時代にあっても社会の上層部では問題なかったが、明治維新の立役者たる下級武士となると標準語を習得していなかったのである。そこで維新から間をあけずに国語政策が重要視され、実施されることになる。統一した言語の存在は中央集権化と経済の発展を目指す社会にあっては必須の前提条件であった。

1983〜84年に放送されたNHK連続テレビ小説おしん」は、平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%を記録した大ヒット番組である。これはビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録となり、社会現象を生み出した。この「おしん」で話される言語は、方言だらけであった。明治維新以降、国語政策によって統一言語を目指し、それまでは地方を舞台にしたドラマでも標準語が採用されていた。そして、若い世代から方言が失われかけようとした頃、復権運動のごとくにテレビの中で方言が登場し始めた。

1980年代に活躍したお笑い芸人の中には、大阪弁丸出しで全国区へと進出した例も多く、「ごっつ」や「ええやん」といった言葉が全国放送の中に地場を築いていったのである。方言がその土地性から解放され、全国的に通じる「標準語」へとなっていったのである。こうなってくると、「方言」とはなにかということ自体が曖昧な存在になってくる。

そして、2000年代に入ると、時代劇から「時代言葉」が消えた。時代劇の中でも普通に現代語が話され、時には当時存在しない外来語が含まれていたりと、時代考証がないに等しい現況がある。それに加えて、現代の女性の権利にあわせて女性が活躍する戦国時代まで出てくる始末である。歴史小説(史実に基づいた再現小説)と時代小説(時代劇もこれに該当するが、架空の人物設定を登場させるフィクション)の区別をしてほしいのと、フィクションであっても時代性を無視するならば時代小説(時代劇)と名乗ってはならないだろう。でなければ、歴史が誤解される。

女性の問題で言えば、将軍の妻は「御台所」(キッチンの尊称)、武士の妻は屋敷の奥の方にいるから「奥方」「奥様」あるいは「内室」「家内」、商人や町人であれば「女房」(房はキッチン)、主人(所有者)たる夫が死んだにもかかわらずまだ死なない人が「未亡人」である。こうした言葉遣いを女性蔑視として遠ざけるのではなく、歴史的事実として冷徹に向き合う真摯な姿勢が必要である。時代言葉のほうは現代語に取り込まれ、標準語となることはなかった。これは復権するほどには、方言のように使用者がいなかったからであろう。

言葉は時代とともに変遷する。そこには時代性とともに地域性も存在する。そして、中央集権化やグローバリズムはその時代性を過去のものとし、地域性を破壊する。今や我々の日常ではカタカナを使用することなしに生活することは困難である。そのうち、時代劇の中でも「ばいばーい」とか「ファイト!」とか使われるようになるのかもしれない。しかし、言葉には時代や地域といった「固有性」を伴う「文化」が必ず存在する。現代の言葉の固有性や文化もグローバリズムを反映しているが、刹那的な「今」だけでなく、「過去」をもしっかりと把握していかなくてはならない。「今」の中に「過去」を取り込むようなモノの見方、現代の文脈の中に過去を読み込むようなモノの見方は意識的に排除していかなければならないだろう。