学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ドラッカーから学ぶこと

経営学の神様、ドラッカーのセリフに「未来に何かを起こすには、勇気と努力と信念が必要である」というのがある。これに初めて接した時、勇気と努力にはなにも感じず、それはそうだよな程度の感想であったが、「信念」という文字が続いて出てきたとき、はっと驚いた記憶がある。

Management(経営学)という学問の誕生は比較的新しく、そもそも経営学なるもの自体がドラッカーの作であり、彼自身は自らを社会生態学者と名乗っていたように、彼が学徒であるうちは経営学を学ぶことなどできなかったのである。むしろ社会生態学者という立場からの観察眼がやがて経営学なるものを生み出したとも言えよう。

つまり、彼は経営とは何かを追求したのではなく、人間が集合して営んでいる「社会」なるものを観察してその特徴を掴み、そこでの人間模様をつぶさに観察して「集団」なるものの特徴を掴んだのである。うまく経営していくにはという視点ではなく、この社会や集団はなぜこのように反応するのかという視点であった。うまく機能する集団とそうでない集団との類似や相違を見つけ、どうすればうまくいっていない集団を軌道に乗せられるのかを考えた。こうした考えはやがて集団を導き、統率する手法の研究へと繋がっていく。

だから、社会や集団内に存在する「影響を受ける主体」と「影響を与える主体」のそれぞれを分析し、働きかけるには好都合な「能動的な主体=経営者」の育成に比重が移っていく。そうして、どのような環境を整えるか、どのように影響を与えていくか、社会や集団の経営者はどのようにあるべきかという一連の問いに答えを見出していったのである。したがって、ドラッカー箴言は企業論ではなく、広く一般的な集団に対して適用可能な組織論である。

現象の観察に基づく解答は明晰で、実学ゆえに大きな説得力を持つ技術論が主である。にもかかわらず、彼は「信念」なる目には見えない精神論を持ち込んできた。なるほど。行動を支えるのは動機たる心の在り様である。ドラッカーが神様になりえたのは、単なる技術論にとどまらない精神論をも内在させた点にこそある。

この「信念」なるものについては、投稿を改めて述べたいと思うが、ドラッカーの稿を終える前に強く言っておきたいことがある。それは、ドラッカー理論は、彼によるアメリカ社会の観察の到達点であるということだ。だから、我々日本人が安易にその表層を学び、字面から得られることを実践しようとすれば、それは過ちを呼ぶ。なぜなら、アメリカ社会と日本社会は大きく異なっているからだ。

確かに日本は近代化という名の西洋化を推し進めてきた結果、生活様式から思考まで大きく影響を受け、一見するとドラッカー理論もそのまま適用可能なように思える。しかし、ドラッカー理論を金科玉条に掲げて実践しても、どこかで大きな穴に陥ることは間違いがないだろう。そこでは経営学的な間違いというよりも、日本文化という壁が立ちはだかっていることだろう。

我々がドラッカーから学ぶことは、経営学の体系化された膨大な知識だけでなく、ドラッカーがアメリカでしたように、日本社会や日本文化の在り様をつぶさに観察して常に加筆修正をしていく必要性である。経営学の大家に加筆修正をするという恐れを克服する勇気と、たゆまぬ努力、そして日本という社会・集団を分析してやるという信念がそろって初めて、日本の経営者が育ってくるものと思う。人は生き物である以上、合理的な存在ではない。最終的に合理的に整理されたアメリカのモノサシを表面的に見るのではなく、非合理的な日本社会の特質を踏まえた日本版経営学を見出さねばならない。

経営で辣腕をふるいたければ、日本社会の生態学者にならねばならないのだ。