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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

資本主義の終わりの始まり

当ブログでは、『近代の倒壊』を認識の基底に置いている。近代が生み出した偉大なものは、民主主義、そして民主主義を担う中間階級と労働者階級を生み出した資本主義、それらを取り巻く価値観である。それらが倒壊しつつある。現在は、江戸時代の封建社会が崩れて混乱の日々に突入していく明治維新の前夜にあたる。NHK連続テレビ小説『あさが来た』の世界である。この番組が17週連続で視聴率20%を超えて支持され続けているのも、激動の荒波に翻弄されながらも志を果たす主人公が我々に勇気をもたらすからなのかもしれない。

我々の時代の「翻弄」の一つに、先月29日の日銀の「マイナス金利」導入がある。2012年1月初めにドイツが実施したマイナス金利が史上最初の例であり、その金利はマイナス0.0122%であった。それ以前は、日本で実質上マイナス金利になったことはあっても(2003年)、意図的ではなかった。インフレ下での高い物価上昇時における低金利によるものであった。そして、今や、欧州では、異常事態だとしながらも、マイナス金利は定着しつつある。

この具体的な説明や原理はエコノミストに任せようと思う。ブログでも雑誌などのホームページでも、盛んに解説が為されている。具体的な現象の説明はそちらに譲るとして、当ブログでは、もっと大雑把に事態を把握したい。

資本主義というのは、資本が資本を生む経済のことである。流通の媒体にしか過ぎなかった資本(お金)それ自体が価値を持ち、お金がお金を呼ぶシステムが資本主義である。その最たる例が貯金であり、銀行にお金を預ければ利息がついて元金が増える。今回のマイナス金利は、我々の預貯金にまで影響がすぐに及ぶものではないが、市中銀行日本銀行に預けていると、一定金額以上の預金にマイナス金利が適用され、市中銀行日本銀行にお金を預ければ預けるほど、「利用料」を払わなくてはならなくなる。

従来の経済学では、金利の最低は0である。したがって、現状を経済学は説明できない。実際、ニュースや雑誌を見ていると、経済学者ではなく、シンクタンクや経済記者などのエコノミストによって論説が繰り広げられているように思う。つまり、理屈での説明ではなく、これまでの諸外国を含む経緯と、ヒステリックな現状と、そしてそれらに基づく予想に溢れているのである。ある意味で実地の、経験がモノを言う世界になっている。学者の地盤沈下がどんどんと進んでいる。

お金がお金を生まなくなった現状は、資本主義の終焉が近づきつつあることの証左であろう。少なくとも、システムとしては金利が0を下回った以上、破綻していると言えるだろう。問題はこれからであり、今後はどうなっていくのかである。これを見つけられたらノーベル経済学賞を受賞できるであろうが、僕にはもちろん、その才はない。しかし、そのカギとなる概念は「グローバル化」であると思う。従来の経済学は国境の内側で構築されたものである。そして、従来の経済学が説明できなくなったものは、その枠組みの外からやってきているからである。

僕が子供の頃は「インターナショナル」化と云われていたが、これは「インター(際・きわ)」と「ナショナル(国家)」が合わさったもので、あくまでも国と国との関係であった。「グローバル」化においては、人と人との関係にまで発展した。政治学の世界では、EUに代表される「ボーダーレス」と言われる国境線の稀薄化である。この時、経済のボーダー(境界)も同時に失われたのである。

かつて歴史家のホブズボームが「地球村」と表現したように、遠く離れた国が身近になり、地球の裏側の出来事がリアルタイムで伝わるほど、地球は小さくなった。村人同士は互いの日常を知るほどに近い関係である。それを支えたのは、鉄道、飛行機、通信などの技術の発展であった。そして、実はこうした変化は二度目である。

それが冒頭の「あさが来た」の時代である。江戸時代の日本は藩に分かれていて、「お国自慢」や「お国訛り」というようにそれぞれを国と呼び、人々の移住はほとんどなかった。生国を出るのはせいぜい、旅芸人か富山の薬売り程度であり、ほとんどの人々は生まれ育った国を出ることなく人生を終えていた。国が違えば言葉も異なり、江戸幕府崩壊のときには薩摩と江戸とで言葉が通じなかったという。

これを変えたのが、蒸気機関であり、中央集権化であり、国語教育であった。明治維新は、日本国内での「グローバル」化、「ボーダーレス」化であったのだ。「あさが来た」の時代にヒントはないものかとこじつけて、今日も「あさが来た」を見ています。