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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

武士は食わねど高楊枝

時事論考

最近の日本人に欠けているもの。それは「見栄」「建前」ではないかと思う。「体裁を大切にする心」と言い換えてもいい。

というのも、「見栄」や「建前」は自尊心を育み、自律心を育てるものだと思うからである。人間は弱い生き物だという前提に立っている僕としては、弱音を吐き、本音を吐露してしまうと、人間が容易に崩れやすくなる、という認識を持っている。

たとえば、親は子育てにツラい思いをするだろう。時には投げ出したくなり、子どもを放置して遊びに行きたくなることもあるだろう。「大人」といっても、当人は自分をまだまだ子どもだというように、あるいは自分はまだまだ未熟だというように感じているものである。たいていの大学生は自らを子どもだと認識しているが、小中学生から見たら大学生は大人である。こうした認識のズレは、社会人にも当てはまる。当人の認識と周囲の認識はズレているものである。しかし、その子どもの部分、あるいは未熟な部分を表に出してしまうと、実際に子どもになってしまうし、未熟を開き直って受け容れてしまう。

こうなると、児童虐待などに繋がるのではなかろうか。最近の児童虐待のニュースを見ていると、子ども同士の、あるいは学生同士の遣り取りではないかと思うようなコミュニティに親が参加しているように見受けられる。素において悪意があるとか、殺意があるとかというよりも、集団化した時のノリであるとか勢いであるとか、友達の手前、粋がってエスカレートしていくような印象を受ける。

具体例として親の話を出したが、警察官であろうと教師であろうと公務員であろうと政治家であろうと、この話の本質は変わらない。自らは「警察官なのだから」と弱い心や欲望を押さえつけ、自律していくには、あくまでも警察官であるという「見栄」は苦しくても張らなくてはならないし、「建前」は維持しなくてはならない。こういう心のブレーキが働くには、「見栄」や「建前」を良しとする文化が必要ではないかと思う。

その苦しい心の内のバランスを取るものが、「自尊心」である。自分は何某なのだという誇りが、それゆえに伴う苦しみなのだと後押ししてくれる。皆が遊んでいる時に自分もと思いつつも、学級委員なんだからと遊べない苦しみを受け入れ、しかし一方で、その負担が誇りとなるような流れは、誰しも経験があることだと思う。与えられた役割を果たそうとし、また果たしている自分を誇りに思う心は、誰にも備わっていることと思う。誰かのために役立つこと、その負担を自分は背負っていると思うことは、決してマイナスだけを生むわけではない。

これには、もちろん、周囲がその役割を認めてあげなくてはならない。実力が不足していようと、名(役職)ばかりが先行していようと、「社長」は「社長」であり、「教師」は「教師」なのである。自分より年下で子育て経験もない新卒教師を下に見て横暴な態度を採る行為は愚かである。なぜなら、親の背中を見た子どもが教師を馬鹿にするからである。子どもは親によって尊敬する教師を奪われる。教師を尊敬できない子どもは不幸である。なにかを教わるのに、その教授相手を尊敬できなければ、その道は上達しないからである。教師と親だけの場面ならクレームもよいが、子どもの前では体裁をきちんと尊重しなくてはならない。家庭で教師の悪口などもってのほかである。

もちろん、家庭で政治家を馬鹿にしていれば政治家を志す子どもはいなくなるだろうし、警察官を馬鹿にしていれば警察に従わない子どもに育つだろう。話は教師に限ったことではなく、ここでの話はすべて喩えであり、本質は何の話にしても通用することと思う。そして、社会的な尊敬を失った職業には優秀な人が集まらず、全体として質の低下が起きる。職に誇りを持てないから、その職業人に堕落した人が出てくるのも自然な流れである。

これは、人間の本質部分である社会性による。人間は社会的動物であると言われるが、その社会で担う各人の役割こそ大切にしなくては、各人がその社会にとどまるアイデンティティを失わせてしまう。社会に居場所を失ってしまうのである。本音はごく親しい間柄で吐露する分にはよいが、表に出してはならない。表はあくまでも維持しなければならないものであろう。

実力が不足していても、建前によるつまらなさや苦しみを感じながらも、見栄を張ってでも体裁を維持しようとすれば、必ず実力は後からついてくる。この努力をしないで本音で弱音を出していれば成長はしない。この理屈はスポーツの世界では自明のことだろう。練習がツラいからとサボれば一流の選手にはなれない。僕は三流選手だからと開き直る人は一流になれない。五流でも一流の心で邁進していれば、必ず成長する。それを年長者が温かく見守り、時にさりげなく手を差し伸べ、応援していく。

こういう世の中を作っていかなければならないのだと思う。