読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

時間の見える化

さて、昨日に続いて手帳術の話をしようと思う。

バーティカル(縦書き)であれホライゾン(横書き)であれ、1日の予定を書き込んでいると、特に予定がないところは白紙になる。これは相手のある予定を書き込む、あるいは自分の目標なりルーティンなりを書き込むからであり、四六時中そうしたことばかりではないから、当然と言えば当然である。

しかし、実際には、生きている以上、「白紙」なる時間はない。たとえ「ボーっとしていた」でも、「ボーっとしていた」という事実(行動)があるのだ。だから、手帳には事前に書き込む予定帳としての役割と、事後に書き込む行動記録という役割とがある。この行動記録としての手帳の役割は、軽視されがちである。仕事などに必要なことはノートにまとめ、というように、手帳以外の場所に「要素」を取り出す人の方が多いようだ。

日常、いつの間にか時間が過ぎていた、やろうやろうと思ってはいたが気づいたら時が過ぎていた、というような話はよく耳にする。あるいは、「忙しい忙しいは無能の証拠」という言葉もあるが、自己管理(時間管理ではない)ができていない人ほど「忙しい」のもまた真実である。締め切りが迫るまでダラダラとして、物事に追われた生活をすることにもなりかねない。本当の意味で多忙を極めてアレコレとこなしている人ほど、なにかを頼んでもしっかりと応えてくれるものだ。

こうした自分自身の反省から、僕は行動管理としての手帳を活用している。なにをしていたかについては忘れないようにその日のうちに書き込んでおくが、ジャンルごとに色分けしたり分析したりという作業は、週に1度、そして月に1度という頻度である。週が終わるところで、たとえば、仕事、遊び、趣味などと色分けをしたマーカーで時間軸を塗っていく。月が終わるところで、各週の小計を足して月の合計を出す。具体的な数値にせずとも、塗り潰した面積だけでも視覚的に理解できる。

こうするだけで、意外な自分の時間の使い方が見えてくる。もっとマジメにやっているつもりだったとか、これほどまでとは、と感じるような「時間の使い方の間違い」に気付ける。頭の中の印象だけでは見えてこなかった時間の使い方である。本業と副業で色分けした場合、いかに自分が本業を蔑ろにしているかが見えてくる。読書時間で色分けしたら、思っていたほど読んでいないことが分かる。

あるものに1日1日に掛けている使用時間が少ないので油断していたら、ボーっとしている時間が意外にも多く、週に直し月に直すと膨大な時間をそれに割いていることが見えてくる。僕の場合には「博物館・美術館」というジャンルもあり、今月は1度もないとか、今月は3度も行っているとかの偏りも見えてくる。「博物館・美術館」は精神を豊かにするために、1度もない月が2ヶ月続けば、3ヶ月目には強制的に予定に組み込むようにする。そうすると、年間を通して必ず行っているように変えられる。うかうかとしていて、うっかり忘れたというようなことは起きないし、また趣味にかまけているということも起きない。

このように、週ごと月ごとに調整を入れて、自分自身の人生を生きようともがいている。なにかに追われ、やるべきことに支配され、という受け身的な生き方ではなく、こうした手帳術は、自分がどうしていくのかという方向性と、それを実現する行動とに裏打ちされた主体的な生き方に繋がっていくと思う。なにかに熱心に一生懸命に取り組んでいることは美徳だと思われがちだが、決してそうではない。勉強の苦手な人が机の前にいた時間を勉強時間に換算するのと同じで、掛けなくてもよい時間を掛けていることは怠けの一種である。

こうした思いをもって、僕は来年も手帳に向き合おうと思う。