学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

振り子のバランス

師走に入って小説を一つ二つ手に取り、感じたことがある。

小説や漫画を含めて、昔の作品には作者の思い、すなわちテーマであるとか主義主張であるとかを伝えようとする作品が多かったように思う。そういう思いがあって絵筆を取る経緯があったのではないだろうか。引き合いするに、現在の作品には構想というよりも妄想を描いているものが多いように思う。

こうであったらいい、ああであってほしいというような妄想の世界を押し広げ、同様の価値観を持つ人々と輪を形成していく。こんなふうに感じる。これは、ニッチな需要を掘り起こすと言えば経営的ではあるが、このブログを含め、ツイッターフェイスブックなどのインターネット環境の拡充が、人々をして発信することを容易にした結果のように思う。インターネット発の書籍が生まれているのも、この証左であろう。

ニッチな需要の掘り起こしは、小さな輪に属する「私たち」を形成していく。高所高台からの壮大な構想を皆で共有し、社会の意識としていた大きな輪の「私たち」ではなく、こじんまりと形成される「私たち」である。この小さな「私たち」は、一人二人でも形成することができ、従って「彼ら」を身近に置くことになる。大きな「私たち」における「彼ら」は外国であったり、冷戦期には、日本で言えば「東側諸国」と複数の国をひとまとまりにしたようなものであった。

現代の私たちは、日常のより身近な空間に「彼ら」を迎えたことになる。これは換言すれば多様性を受け入れるということでもある。多様性を認めることは、同時に寛容性をも身に付けなければならないはずなのに、実際には寛容性は極めて限定的である。「私たち」がいくつも存在しうるなら、外部に存在する「彼ら」の異質性を相互に認め合わなければ、「私たち」の存在も危うくなる。

しかし、他者の「私たち」を異質なものとして認めないばかりか攻撃的になり、自らの「私たち」を押し広げて相手に求めていく姿勢は、押し付けであり、上から目線であり、他者に対する自らの優位の主張となる。押し付けとか上から目線とかいう言葉が盛んに用いられ、目上目下の区別なく対等に存在する時代は、大陸や列島と異なる「個の島々」である。

事態をより複雑にしているのは、その「私たち」が固定的なものではなく、ある時は同世代、ある時は会社や学校やクラス、ある時は地域など、同一人物が複数の「私たち」に同時的に所属しており、しかも頻繁に移動するということである。これは、なにかをキッカケに熱狂的に「私たち」が作られた時には、巨大な「私たち」を生むことにも繋がる可能性を秘めている。過去の政治史的には、衆愚政治であったりナショナリズムであったりということになる。

「個」の時代、小さな「私たち」の時代においては、社会という連帯が非常に脆くなる。社会においては、他の個との関係で制約を強いられるものであり、その制約を重荷として束縛に感じて脱しようとしたり破ろうとしたりすることは、社会から見ればアウトローであり、その権益を守ろうとする義務から免れることを意味するが、個人から見れば自己の実現であろう。

物事はなんでもバランスであって、どちらか一方を選択するというようなものではない。利己的我が儘なのか自己の実現なのかは即断はできかねることながら、利己的なほうに振り子の針が振れていることが多くなったように感じる昨今である。