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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

特別扱いは死を招く

さて、消費税10%が施行されるのに伴い、昨日16日、「食料品」と「新聞」は8%のままに据え置くと発表された。これで、違和感を覚えた人はかなり多いと思う。

「食料品」については、ずいぶんと途中経過を聞いてきた。同じものでも外食するのか持ち帰るのか、飲食店が購入する食材も軽減税率が適用されるのか、加工食品はどうなのか、など、線引きをめぐる議論をずいぶんと耳にしてきた。そうした議論を聞いている途中で、「あぁ、そうか。そんなところまで意識しないとならないのか」と、その複雑性に驚いたりしてきた。実際の運用の際に、必ず問題が出るだろうとも思う。

ところが、「新聞」については、最終発表の時にいきなり結論として登場したのだ。「知識への課税強化」に反対し、「民主主義の基盤だ」ともっともらしく表看板を掲げたところで、最近の新聞社の不祥事などを背景に、国民の中には白々しさが拡がっていると思う。知識を得るのは何も新聞に限ったことではないし、雑誌やインターネットでも可能である。それに、「日刊紙」から「週2回発行のもの」までを「新聞」とした線引きも、もはや政治的な果実である。国民のほうを向いていない。

僕個人で言えば、新聞に知識やら教養やらは求めていないし、民主主義の根幹となる判断力は新聞からもらうものではないと思っている。新聞には「事実の報道」を求めている。いつどこで何が起きたかを知るには、新聞がもっとも適していると思う。一方で、最近の新聞はまともな取材をせず、検証もない引用であったり、ある新聞社に至っては捏造や結論ありきの報道姿勢で、事実を伝えるという一点ですら危うい状況があると感じている。そして、インターネットには「いつどこで何が起きたか」が溢れている。

それこそ、食品と同じように、週刊誌や月刊誌がなぜ「民主主義の根幹たる知識」を与えるものから外れたのか、「憲法に保障された知る権利」を守るものとして外れたのか、「週2回以上という線引きの合理的な理由は何か」といった議論が、食品同様にあってもよかったのではなかろうか。あるいはあったけれど、意図的に報道してこなかったのであろうか。新聞への軽減税率適用の決定過程にたいして、「知る権利」を行使したい。新聞は自ら説明をしていかなければ、自らを軽減税率対象に含めた根拠を失うことになるだろう。

日本新聞協会公明党の政治力で決まったとするなら、ぜひに糾弾をしてもらいたい。でなければ、まさに理由で述べているように、民主主義の根幹が腐ってしまう。衣食住の「衣」と「住」を差し置いて知る権利が登場した経緯は、どうしても納得のいくものではない。新聞への特別扱いが現実化するなら、新聞の不買運動でも起きて不思議ではない。新聞がなくても、メディアの多様化や雑誌や書籍など、知的に成長できるところは他にいくらでもある。僕は、この新聞への特別扱いは、新聞業界衰退の分水嶺を形成するだろうと思う。人々が離れてしまうきっかけになりうる。日本人は、自らに甘く他者に厳しい存在を激しく嫌う性質を持っているからだ。それに、租税では公平感は最重要なものである。

新聞に軽減税率を適用している国は多く、先進国やEUでもそうだと日本新聞協会が主張しているという記事を読んだ。EUでは確かに新聞にも軽減税率が適用されているが、EUでは水道、ガス、電気も軽減税率の対象である。生活必需品目であるという理由で。都合の良い一部分を抽出して記事にして、外国もそうだから、と論陣を張るよりも、きちんと取材をして、背景なり状況なりを比較検討してから論陣を張ればいいのに、と、その記事を読んでいて思った。

また、読売新聞が主導して勝ち取ったとの報道も一部であるが、もし、読売新聞が政権を一貫して支持してきたご褒美だとするなら、新聞は今後、政権批判を手控えなくてはなるまい。そうなれば、第三の権力は失われたも当然である。それでどうやって「民主主義の根幹を担う」のだろうか。また、朝日新聞は軽減税率に反対する論調をしてきていたのに、「社会が報道機関に求める使命を強く自覚したい」と今日の社説で述べている。共産党政党助成金よろしく、朝日新聞も軽減税率を返上すれば、説得力も持つだろうに。愚かと感じるのは僕だけだろうか。