学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

18歳選挙権について

来年から選挙権が18歳に引き下げられる。具体的には来夏の参議院選挙から適用されることになる。今年の6月に法律が成立し、1年間の周知期間を経ての実施となるからである。選挙権の年齢が変更されるのは、1945年の25歳から20歳への変更以来、70年ぶりのことであるが、これにより、衆院選参院選地方自治体の首長と議会の選挙、最高裁判所裁判官の国民審査、地方自治体の首長解職や議会解散の請求(リコール)を受けての住民投票にも18歳以上が参加できるようになる。

世界の約190カ国・地域のうち、約9割で選挙権年齢は18歳以上であるとか、少子高齢化社会・人口減社会を迎えて、年金などの社会福祉政策や将来への政策などでの世代間格差・対立を政治的に緩和するための動きでもあるが、権利には義務も伴う。

選挙運動も認められるが、その際、買収など連座制の対象となる重大な選挙違反をした場合、原則として成人と同様に刑事裁判の対象にもなる。他に、民法の成人年齢や少年法の適用年齢にも変更が加えられるので、選挙権のみならず、いろいろなところで「大人」が新しく誕生する。その数はおよぞ240万人である。

僕は、「大人が増える」という点において、18歳選挙権拡大には反対の立場である。18歳、19歳が投票するには未熟であるとか判断力が未熟であるとかというようなことで反対するのではない。未熟さは20歳未満に限られる話ではないし、20歳を迎えれば成熟するというようなものでもないからだ。「大人には成熟した政治的判断力が備わっている」というのはあくまでも理想論的な擬制であり、「平等」の観点から一律に年齢で線を引いてきたに過ぎない。

選挙権を持つということは、社会の構成員としての「責任」を社会に対して担うことであり、この「責任」という過酷で厳しい義務に、いまだ構成員として参加していない者に課することに問題があると考えている。たとえば、選挙活動に熱心に参加するあまり、選挙法違反をして刑事罰を加えられることになった場合、その過料を親が支払うことは許されない。本人がその責を負うべきである。そして、違反者は刑事罰ゆえに前科者になる。いわゆる暴力事件や窃盗などではなく、よかれと思って一生懸命に参加しているうち、知らず、犯罪に加担することになるのである。

大人ならば、厳しい言い方ではあるが、自己責任として、知らないほうが悪い、知らないでは済まされないとして片づけることもできようが、保護者によって保護されるべき者、すなわち、社会から留保を受けている者が、このように責を負うことに耐えられるのであろうか。給与明細を受け取る前に、住民税とか所得税とか、実感を伴って社会の構成員であると感じることは難しいだろう。また、その実感がない人たちが実際に負担している人たちと同等に扱われることは平等なことではない。

15歳で「元服」し、社会の構成員として社会に参画しているのなら、15歳から選挙権を与えてもよい。20歳を成人とした70年前の社会状況で言えば、中卒や高卒で働く人も多く、1950年代において大学進学率は16~21%を推移している。比べるに、2015年では56.5%(速報値)である。むしろ、責任留保を受け、社会的な保護の対象者が22歳までとなっているのが現状である。このことからすれば、選挙権はむしろ22歳に引き上げるべきであり、18歳選挙権は論外である。

参加することのメリットだけを考えて権利が与えられたことを喜ぶのではなく、付帯してくる義務についてもきちんと認識するべきである。高校生で選挙権を持つので、高校の学習内容にも反映させるべきという声もあり、模擬投票なども行なわれているらしいが、禁止されている学校内での選挙活動が発覚した場合には、生徒の中らから犯罪者が生まれるということもまた、併せて授業に反映されなければならない。その時に、学校や教師、保護者が守ってくれるという甘さは排除しなければならない。おいしいところだけを享受し、そうでないところは保護されるというような「未熟な大人」ならば、選挙権を持つ資格はないのである。

民主主義ということには、あるいは主権者であるということには、こうした厳しい側面があることもまた、厳然たる事実である。でなければ、その負担や責任は一切負わないで、無責任に自分の主張だけを押し通す迷惑千万な「有権者」(権力を有する者)になるだけである。これは、まっとうな有権者、本気で社会の弊害と闘う有権者が涙を呑む事態である。だから、僕は18歳選挙権拡大に反対するのである。