学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

マナーの瓦解

僕は電車通勤をしているのだが、最近、つとにいろいろな場面でマナーの悪い人に出会う。マナーは道徳心の問題でもあり、よく言われているのは「若者のマナーの悪さ」である。しかし、ふと気が付いたことがある。マナーが悪いのは50代以上のおじさんやおばさんである。

たしかに、電車内での化粧や駅のコンコースでの座り込みなど、若者のマナーの悪さが目立つ場合もある。しかし、それは、少なくとも僕に関しては、「この人、ヘンなの」とか「邪魔だな」とか感じる程度なのである。しかし、おじさんやおばさんのマナー違反は、往々にして不快を覚えるようなものなのだ。混んでいる電車内で座って足を投げ出している人、荷物を体の横に置いて座っている人、人の流れのあるところで突然立ち止まったり、流れを無視して反対に歩いたりする人。こういう人はたいていおじさんかおばさんである。

そこで考えたのだが、この人たちの少年期・青年期についてである。道徳が涵養されるのは少年期・青年期であるわけだが、この人たちの親世代は、右肩上がりの高度経済成長を支えた世代である。この時代は、「亭主元気で留守がいい」に代表されるような、父親は家庭を顧みずに母親に任せきりという時代であった。あるいは核家族化が進んだ世代である。こうしたところで、家庭教育が疎かになったのではないだろうか。

だから、70~80代以上の「親世代」が50~60代の「子供世代」にきちんと家庭教育で伝承されるべき「道徳」「マナー」といったものを伝える機会を得ず、また、「子供世代」は祖父母とも離れて暮らすことで、躾を受ける機会を失ったのではなかろうか。そして、今やその50代の子供たちが成人となり、あるいは子を持つ時代となって、道徳やマナーの瓦解が目に見えてきたのではないだろうか。目に見えるほどの変化は、取り返しのつかない規模になってからというのがほとんどである。

政府のほうから「道徳教育」がさかんに叫ばれたり、「郷里を愛する心を育てる」と叫ばれたりするのも、結局は核家族化や働き手として両親ともに不在になるという社会的構造の問題に端を発しているわけで、ここをなんとかしないと、「道徳教育」も「郷里を愛する心」も育ちようがない。それに、道徳を教えようにも、教える側の世代に道徳が欠如している面もある。

小学校教師が「イヤナヤツ18782とイヤナヤツ18782を足すとミナゴロシ37564」と教えたり、また別の小学校教師が「男の裸は金にならないが、女の裸は金になる」と発言したり、あるいは公共的性格を強く持つマスメディアの部長が品位のかけらもない卑猥な言葉をTwitterに投稿したり、他人を罵ったり、あげくには「死ね」と投稿したり、脅迫したり、というありさまである。

道徳は公共心を持った個人の問題である。立場や見栄といったものが道徳を支える面もある。この意味で、建前と本音の日本社会が崩れ、本音でずけずけ言うことがもてはやされるような社会では、公共心は育たない。自分は教師である、自分は報道機関関係者である、というような、自分は**であるといったような立場、すなわち公共との関係を意識して初めて人の行動は抑制や規律を受ける。公共などというものは目に見えて実在しているものではない。自分自身の中に自分の立場を意識することで公共が成立してくるのだと思う。