学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

価値観の対立が行き着くところ

18日に投稿した「パリ同時テロについて」の記事の中で、僕は話し合いができないほどに価値観に隔たりがあり、軍隊同士の戦いのうちは引き際や交渉が成り立つが、全面降伏か皆殺しかという選択肢しか理論的には成立しないと書いた。「軍隊同士の戦いのうち」というのは、経済的対立のことである。価値観の隔たりが原因の時、その戦いは凄惨なものになると述べた。そして、昨日のニュースである。

夕刊フジの記事ではあるが、パリの同時テロに関連したシリアにおいて、米仏露で「殲滅に向け」た軍事行動へと発展したようである。「殲滅」とは「皆殺し・残らず殺すこと」である。この記事を書いた記者がどのような感覚でこの言葉を使ったかは不明だが、非常に強い言葉遣いである。これは非常事態というよりも異常事態であって、通常の枠組みにはない。

通常であれば、逮捕して法廷へ引き出す。もちろん、現場での切迫した危機的状況においては、その場で射殺することも警官には可能だが、最初から射殺するつもりで現場に行くわけではない。捕まえるつもりで行って、結果的に安全確保のために止むを得ず射殺となるはずだ。しかし、今回は射殺の複数形でもある「殲滅」が目的である。熟語で書くから実感が薄いと思われるが、辞書を引けば載っているように、「皆殺し」である。

もともと、「殲滅作戦」はドイツ(プロイセン)が四方を敵に囲まれた地理に位置し、後顧の憂いをなくすために採らざるを得なかった「生き残り戦術」であり、このことはクラウゼヴィッツの「戦争論」でも触れられている。テロがある意味で人と場所を無差別に攻撃してくるとすれば、四方を囲まれたに等しく、生き残ろうとするものではある。かなり曲解をするようではあるが、「殲滅」の出てくる余地は、理論的にも成り立つ。

このことは、とうてい先進民主主義国の「普通」ではない。だから、欧米指導者は「戦争」という言葉を使う。広義には内戦や反乱も含むが、狭義では問題の武力解決であり、国家による政治の一手段で、基本的に国同士である。この言葉遣いに違和感を覚えていたら、フランス首相は「新たな種類の戦争」と定義した。

当然、対応する法律的根拠はないので、フランスでは憲法改正・法改正を視野に入れて行動を始めている。これに国際社会が呼応し、シリアへの地上軍の派遣という事態に至ったわけである。

このことは、民主主義において、非常に大きな問題を投げ掛けている。現在の民主主義では、多様性を認め合おうとするものである。しかし、相容れない価値観の対立が生じたとき、あるいは話し合いで解決するという姿勢が当事者の一方にでも欠けていた場合、世論はいとも簡単に「皆殺し」を支持し、相手を根絶やしにする政策を支持するようになるのである。これが、大衆的熱狂の暴走ともなるし、大衆民主主義社会の恐ろしさでもある。こういう時こそ、事態を冷静に見て、興奮に呑み込まれないようにしなければならない。