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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

制度とその運用

僕の専門は「比較制度論」なのですが、「制度論」なんてものをしていると、時々、虚しくなることがある。というのは、結局は「運用している人の問題」に行き着くからだ。どのような制度を制定するにしろ、そこには必ず運用する人の存在と離れて存在することはできない。同じ制度を導入しても、運用する人が違えば違う制度になってしまうのだ。だから、制度論は歴史的アプローチを通して、その民族性や文化性、社会性を勘案して、その国の制度を考察せざるを得なくなる。

このことは、難しい学問の世界の話ではない。個人で何かを習慣にしようとした時、サークルや会社、部局でなにかルールやシステムを決めた時にも、同じことが言える。個人のルールとして、一日に何時間ほど資格勉強をしようとか、一ヶ月に本を何冊読もうとか、こういうことを決める時である。あるいは、会社でオンライン・カレンダーに皆のスケジュールを統合しようとか、週に何度かは7時退社をしようとか、こういうことを決める時である。

この時、どれだけ高邁な理想を掲げていようが、動機や理由が立派であろうが、詳細にシステムを決めていようが、運用する人間が「きちんと決められたことを守る」かどうかで制度の良し悪しは決まる。運用できないルールやシステムは存在しないに等しい。あるいは、制度を作った理由や意義を無視して形骸化していくなら、その本来の意図を骨抜きにしてしまうような運用であるなら、その時もまた、ルールやシステムは存在しないに等しい。

だから、制度というのはある程度フォーマットないしテンプレートのようなものと捉え、そこに運用する人の性格などを勘案して形を変えていかなければならない。だから、制度(ルールやシステムなどの決まり事の手続き)を制定するには、その制度がそれを通じて何を実現しようとしているのか、ある手続きは何を達成するために導入されたのかという本質を見ることなしには制定できない。ここを抜きにして、他の制度を参考にすることは無意味である。

日本ではよく外国でこうしているからという理由で導入される制度がある。近いところで言えば、裁判員制度労働市場の流動化など、そうした例はすぐに思いつく。この西洋の制度の導入は、西洋での運用とその効果とは異なる結果を出していることは明白である。こうした制度が、従来までの日本の社会を破壊し、文化を変え、そして個人の意識までも変えてしまったことは疑いようがない。その結果、今、コミュニティの再生だとか道徳教育だとか言い始めているのだ。

この時にも、過去の日本を参考にすることは大いに結構だが、当時の日本と現代の日本とでは、状況が異なるわけで、単に昔を再現しても意味はない。本質や要素の検討を深くし、現状とともに運用者の性質もまた、見なくてはならない。

制度というのは、このように運用者という側面がかなり大きな割合で占めるのだが、それでも制度の存在する意義はある。制度は形骸化されようと無力化されようと、一定の手続きを要求するものであり、まるきりの無視をできないものである。これは最低限のものを保障するということである。家で言えば骨組みであり、装飾によって同じ骨組みでもまったく異なるものになるとはいえ、家の構造からは免れえず、また骨組みなしには存立できないのと同じである。一定の制約を加えることは間違いない。

だから、制度とはフォーマットないしはテンプレートであり、運用できるとの現実的な根拠をもって組み替えられていくものである。先人のやり方を真似たところで同じ結果が望めないのと同じである。「制度論」は制度を考察するだけだが、こうした実際の動きを勘案すると「比較制度論」となる。学問的な考え方やアプローチは、こうして実学となっていく。実学とならない学問は無意味である。自分の専門分野や学問をこのように活かしていけることができたら、幸せである。