学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

パリ同時テロについて

パリで悲惨な事件が起きた。これに関する考察をする前に、まずは犠牲者に哀悼の意を捧げ、遺族に弔意を表し、そして今なお生死の境をさまよう人たちの回復を願う。

今回のテロ事件を振り返るに、僕は最初に第二次世界大戦時のヒットラーを思い出した。ヒットラーは英国のロンドンを空爆するような作戦を開始し、王宮を狙わずに下町ばかりを狙わせた。それは、一般の人々が被害に遭うことで、戦争をやめろという圧力が政府に向かうことを企図したものであった。戦争被害が実害として自らを襲い、どこか対岸の火事であるという空気を一掃し、被害に遭いたくないとの思いから、政府へ圧力をかける世論形成を狙ったのであった。

今回のパリ同時テロにおいても、標的とされた場所はパリの下町や若者の集う場所であった。政府中枢機関を狙わず、こうした地域を狙った背景には、フランスがシリアを空爆をしているから、こういうことが起きるのだという恐怖をパリ市民に与え、シリアへの空爆をやめさせる世論を形成しようという試みだったのではないかと思う。もちろん、政府中枢と異なり、警備の手薄な地域で実際に行動しやすかったという現実的選択でもあったとは思う。

しかし、だからこそ、フランスの世論が報復へと向かい、すぐさまシリアへの空爆を強化したことは、彼らの思惑とずれることであり、反撃としては合理的である。このあたりは我が国にはとうてい真似できない政策的判断である。とはいえ、このテロ攻撃自体がフランスに対する反撃だったという側面も見逃しがたく、欧州の史観でのみ考察することにためらいが生じる。

そもそもフランスはシリアの旧宗主国であり、植民地としてシリアを収奪してきた過去がある。フランス国内にフランス国籍を持った元シリア人が多いのは、こうした歴史的経緯がある。移民問題とは別に、植民地という繋がりが、今や(フランスにとって)マイナスに働いているということだ。くわえて、現在の有志連合によるシリア空爆へのフランスの参加がある。シリア側から見たときのフランスの仕打ちには、腹が立つものもあろう。

「暴力」といった場合に、正規軍の行為を含めず、テロ行為だけを含めることに違和感を覚える。とはいえ、話し合いはできないほどに価値観に隔たりがある。こうした場合にどうすればいいのか。民族ごと皆殺しにしなければならないのか。軍隊同士の戦いのうちは引き際や交渉が成り立つが、第二次世界大戦で「国民総出」という戦争になった時、全面降伏か皆殺しかという選択肢しか理論的には成立しなかった。それがあれだけの凄惨な戦争となった。

しかし、これは過去の話ではない。今後の局面では、こうしたケースが増えていくものと思われる。グローバル化が進み、TPPが締結され、国境という概念がより希薄になり、人々の交流が深度を増していく中で、どうしようもない価値観の隔たりが表出してくるであろう。そうしたときにどうするかという叡智を、21世紀の地球人は出さなくてはならない。そうしないと負の連鎖は止まるところを見失い続けるであろう。

日本人を含め、対岸の火事という見方ではなく、自らの身近な問題として、このパリ同時テロを考えなくてないけないと思う。2001年のアメリカ同時多発テロ、2005年のロンドン同時爆破事件、そして今回のパリ同時多発テロは、2016年に伊勢志摩サミットや2020年にオリンピック開催を控える日本にとって、また日本に住む一般の人々にとって、きちんと向き合わねばならない事件である。