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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

反省するということ

哲学思想

一週間ぶりの更新である。やや日常の忙しさにかまけて、ブログから遠ざかってしまっていた。このことを反省する意味でも、今回は反省ということを考えてみようと思う。

われわれの精神活動では、後ろを振り返ってよくよく思い患うという表れ方をすることが非常に多い。たとえば、自分自身や他者、あるいはすべてのものが、現実に起きたようとは違ったふうに為すべきであったとか、どのようにすべきであったとかいったぐあいに想起される。つまり、現実問題として、気に入らない結果を導いてしまったときに、そのプロセスを検証し、ここが間違っていたからだと納得するための方便である。

だから、その中で強迫的に因果関係を組み立てたりもする。そして、あれこれと原因を突き止め、そうした要素を他にも見つけ出して並べ、こちらを採ればよかったのではないかと検討をする。このことを「思考する」ことなのだと受け止めているかもしれない。

しかし、精神活動からみると、このことは横道にそれた非生産的形式であり、本来は自己呵責にすぎない。自分を理性的に、理知的に責めることで、感情的な鬱積を処理しているのだろう。だから、これは本来の意味での「思考する」では決してない。ここにおいては、「現実」と「単に考えられたこと」や「表象されたこと」との弁別が欠如している。つまり、これらは現実に対する夢、表象、願望、怖れの類なのである。

では、「思考する」とは何かといえば、前向きな建設的展望を描き出すことである。たとえ歴史を学び、歴史のことを考察するのであっても、それが現代を生きる我々にどのような教訓や示唆を与えているのかと「思考する」のである。だから、歴史は民族によって、また同じ民族においても時代によって、その思考した結果である解釈が異なっていて当然なのである。なにに反応するか、どこに注目するかは、対象ではなく、その観察者によって変化するのである。

この前向きで建設的な思考こそが反省であり、夢、表象、願望、怖れなどとは峻別され、未来に視線を向けた行動へと繋げていかなければならない。つまり、反省とは、「ごめんなさい。もうしません」ではなく、処方箋を案出するものでなくてはならない。「ごめんなさい」は謝罪であり、反省ではない。そこでシュンとしているのは落ち込みであり、反省ではない。

ということは、なにかをやらかしてしまったときに初めて反省するのではなく、良いことであっても、よりよくしていくために反省が必要である。論語に「吾、日に三たび吾が身を省みる」とあるように、反省は日常の営みとなってこそ、力を発揮するものなのである。

と、偉そうなことを述べつつ、たいそうなことを吐きつつ、今後、更新が滞らないように精進しますので、許してください。