学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

論理の多様性

論理というのは筋道であり、その筋道に沿って流れていく言葉の群れに説得させられるか否かである。なにか対象を筋道を立てて考え、その立てた筋道を人に説明し、同時に相手の話を聞き、文章を読んで相手の筋道を理解していく。これがコミュニケーションである。よって、この流れが途切れた時に、人は論理の切れ目を感じ、なぜそうなるのかと問うことになる。

この筋道というのは、実は時代によって文化によって異なる。神話は科学の発達していなかった時代の自然の不思議を説明するものであったから、近代以前においてはそれなりの論理性を持っていたし、ヨーロッパの大学においても神学は重要な科目であった。近代初頭に王権神授説を唱えて世俗の王権を確立したが、それとて、「神から授けられたもの」として、「科学的に」世の中を説得したわけである。

やがて科学が発達してくると、西洋においては、自然は克服するべきものとして捉えられてきた。神の呪縛から逃れた自然現象に科学のメスが入り、次々に解明されていった。そして今や、遺伝子やiPS細胞、ES細胞などの再生医療にまで昇華してきている。

英語の "wonder" という言葉は、日本語の「不思議」に対応する。英英辞典で引けば、その語義は、「怪しむ・いぶかしがる・疑う」で、「好奇心を持つ・知りたがる」とある。つまり、「訳が分からない」となるから、"I wonder"="I don't know" と書き換えが可能なのである。さらには、アリスの "Wonderland" は「不思議の国」のアリスである。

しかし、日本語の「不思議」は、「議題を思わず」なので、実は追求をしない。西洋人は「訳が分からないもの」は解明しようと「知りたがる」が、東洋において、少なくとも日本においてはそうではなかったということだ。仏教発祥のインドの言葉で「マーカ(ないしマーハ)」は「大きな・偉大な」という意味だが、これを加えて「摩訶不思議」とすると「ものすごい不思議」となる。ちなみに、お経の中の「仏説摩訶般若心経」は「仏が説く偉大な般若心経」であり、「マハトマ・ガンディー」の「マハトマ」は「偉大な魂のガンディー」である。

自然に対して「無為自然」とし、度重なる災害を無念のうちに受け容れてきた自然観や、山の神・海の神・道祖神と自然を畏敬の念で迎え入れ、追求をせずになぁなぁで済ませてきた共生の感覚が日本にはある。

英語の構造・日本語の構造にもこうした精神性は表れてきているが、英語の論理と日本語の論理はまったく異なるものである。つまり、上述してきたような文化的背景によって論理が異なっているということである。合理性とは論理に適うことであるから、我々は時に「西洋合理主義」というように言葉を使い分ける。日本人が「西洋合理主義」というときは、血も涙もない客観的で人情に欠けた論理を念頭に置いていると感じることが多い。

国際的に交渉ごとに臨むときには、相手の論理構造を見抜かないと相互理解が進まないことはよく言われることだが、同じ日本人同士でも同様である。とりわけ、西洋と東洋が同居している日本では、話している本人も無自覚・無意識に、ケース・バイ・ケースで両方の論理を振りかざすことがある。相手を説得するには、どちらの価値観で今考えているのかを考えることが必要になろう。同時に、自分自身がどういう論理で動いているのか、振り返って自覚的・意識的になることもまた、必要である。